Main

 
とっておきのこの一枚

とっておきのこの一枚

思い入れのある場所や事物について語るコーナーです


比島へと続く海
記入日:平成17年6月4日  撮影日:平成元年2月28日
撮影場所:サイパン島西岸よりフィリピン海を望む丘にて

 6月に入り、もうすぐサイパンに敵が上陸した6月15日がやって来る。そして我が機動部隊が惨敗を喫した6月19日も。そのマリアナ沖海戦を、英語では何と呼ぶか、このページをご覧になる方ならご存知のことであろう。もしBattle of Marianasと云ったら大間違い、Battle of the Philippine Seaが正しいことは言うまでもない。直訳すれば「フィリピン海海戦」となるので、戦史を良く知らない方なら「比島沖海戦」と紛らわしいだろう。日本ではまず使われることがない、その「フィリピン海」という呼び方について、始めて明確な定義を見たのはつい最近のこと、このページからのリンク先であり、わたしが常々南の島々の勉強をする種を提供してくれている「やしの実大学」というサイトに掲載された、中島洋・太平洋学会専務理事のエッセイである。この記述には大抵の日本人には驚くに違いない。

 その、「フィリピン海の北端はどこか」と題するエッセイの記載によれば、「何とフィリピン海の北の端は伊豆半島の南端」なのだという。そして伊豆、小笠原諸島からマリアナ諸島へと続く。さらにてヤップ、パラオを経てインドネシアのモロタイ島(引用したエッセイには「フィリピンのモロタイ島」とあるが、誤り)がフィリピン海の南の縁で、今度はフィリピン諸島から台湾、南西諸島を通って大隈半島に至るという。そして、これらの線に囲まれた全ての海域がフィリピン海なので、伊豆諸島や沖縄の片側がフィリピン海に面しているのはもちろん、九州、四国、東海地方の太平洋岸は、実は全て「フィリピン海岸」なのである。

 中島洋氏の推測によれば、日本で「フィリピン海」の呼称が一般化されないのは、この呼称が決定された「日本も加盟している国際水路局という国際機構が1952年に開いた国際水路会議」の議論で日本の提案した、この水域を北太平洋の一部とする、または「小笠原海」ないし「マリアナ海」と呼称する、という案が採用されなかったことが影響しているという。また、フィリピン海の呼称が定まりつつあった1950年(昭和25年)まで、日本が国際水路局を脱退していたので、蚊帳の外に置かれたことも理由の一つとして挙げている。このため、日本の公式海図にはフィリピン海の呼称は一切使われていないという。

 また、私の考えを付け加えるなら、「オホーツク海」のような地名でなく、国名を冠してしまうとその国の領海のように感じられて不愉快、ということもあるであろう。韓国などが「日本海」に不快感を示すのもそんなところに原点があるに違いない。蛇足ながら、当時の日本に取って、そして恐らくいまもフィリピンという国のイメージが余り良くない、ということも理由になっているのではなかろうか。今後、「グローバル化」が進めば、日本が「フィリピン海」を受け容れる日が案外直ぐに来るかもしれない。いつまでも国際的に認められた呼称を無視していると、「日本海」を断固拒絶している隣国を批判できまい。何より、日向灘も遠州灘もフィリピン海の一部なのだと思えば、我々にとって中国や韓国と異なり隣国という感覚の無いフィリピンが一気に近くなったような気がするはずである。

引用元URL:http://www.yashinomi.to/micronesia/no20.html


題名:南島名物檳榔子
記入日:平成16年10月18日
撮影日:平成9年1月20日
撮影場所:ガ島ホニアラ郊外マタニカウ川沿い

 今回ご紹介する写真は、ガダルカナル島マタニカウ川沿いの道端で商売する、ソロモン人家族である。一家がテーブルの上にならべて売っているのがベーテルナッツ、日本語では檳榔子(ビンロウジ)である。太平洋諸島で広く愛好されている嗜好品のベーテルナッツ噛みは南の島の風物詩とも言えようが、実態は余り美しいものではない。このウェブサイトを作るにあたってしばしば引用する「オセアニアを知る事典」(平凡社刊)はこれを次のように解説している。「ヤシ科のアレカヤシ、通称ビンロウジュAreca catechuの種子(ベテル・ナット)の核と石灰を、コショウ科のつる性植物キンマPiper betleの葉で包み、これを口の中で噛む習慣をベテル・チューイングと呼ぶ。噛んでいると口中が朱赤色になり、これを唾液とともに吐く。ベテル・ナットはアルカロイドを含み、興奮性の麻酔作用があり、紀元前よりインド、東南アジア、オセアニアの各地で咬?料masticatoryとして広く栽培・利用されてきた。」

 要は椰子の実の非常に小さいようなものを葉っぱに包んで、石灰をまぶして噛むのだが、すると緑の実が石灰と化学反応を起こすのか、口の中が真っ赤な汁でいっぱいになる。この汁の味、ひたすらに苦い。ビンロウを噛むものはこの赤い唾液を辺り構わず吐き散らすので、大洋州諸国でも公共の場ではビンロウ禁止としていることもある。また噛んでいるうちに段々と口が痺れてくる。わたしはこの段階まで何度か挑戦したのだが、好きになるには到らなかった。この苦味が苦にならなくなったら癖になるのかもしれない。

 このビンロウだが、日本との関わりは驚くほど古く、「奈良時代の756年(天平勝宝8)ころすでに輸入された記録がある」(前掲書)。用途は薬用、染料とのこと。それから下って千二百年、現代日本とビンロウとの接点について、面白い話を見つけた。ヤップ島の「酋長」がイベントに呼ばれて日本に来て、愛用のビンロウを沢山持っては来たのだが、一緒に噛む「カブイの葉」(キンマと同じものであろう)が保存が利かないため困った。何とかしてよと某人類学者に泣きついたところ、この学者が新宿御苑で良く似た種類の葉っぱを見つけ、閉苑間際になるのを狙って4、5回にわたって「葉っぱ泥棒」に及び、ことなきを得たという。小林泉著「ミクロネシアの小さな国々」(中公新書)に紹介されていたほほ笑ましいエピソードである。


題名:ハイビスカスの真実
記入日:平成16年6月21日
撮影日:平成16年6月20日
撮影場所:福岡県八幡

 南国の花の代表格といえば、真っ先に挙げられるのはハイビスカスであろう。燃え上がる情熱そのもののような花の色(ハイビスカスといえばやはり赤が思い浮かぶ)といい、重要なアクセントとして突き出しためしべといい、実に自己主張が強い。このハイビスカスとブーゲンビリア、そして香りの高いプルメリアを、わたしは勝手に御三家と呼んでいる。人によっては火炎樹(フレームツリー、南洋桜)を入れたいという方もおられるだろうが、これは季節が限られるし何処にでも生えている訳でもないので、わたしの中では別格の扱いなのである。ハイビスカスなどの、年中無休で咲き乱れる方がいかにも南国らしいのではないか。

 わたしも南の島をこよなく愛する一人として、島々を彩るハイビスカスについても少々は知っているつもりでいた。アオイ科の低木で中国南部原産(インドという説もあるとのこと)和名はブッソウゲ、漢字では仏桑華、もしくは扶桑華。扶桑といえば日本の別名でもあるのはご存知のとおり。そう、日本はハイビスカスの国であり、「戦艦扶桑」は「戦艦ハイビスカス」なのである。

 こんな程度の知識でも、世間一般よりは分かったような気でいたのだが、実は基本的なことを全然知らなかったことに気付いたのはつい先日のことだった。きっかけは妻が一鉢のハイビスカスを買ってきたこと、ちょうど花をつけるところだったので、観察にはもってこいである。先週金曜日に初めて花をつけたのだが、夜帰宅すると朝咲いた花はしおれていて、翌朝再び咲くことはなかった。ハイビスカスの花は一日で終わりということである。

 園芸好きの姑に訊くと、たしかにハイビスカスの花は一日限りだという。別に何ということもないのかもしれないが、生命力の象徴のようなあの花が一日限りの命というのが実に意外であり、わたしには新鮮な驚きであった。ハイビスカスの花が何日持つものなのか考えたこともなかったが、感覚としては一週間は咲いていそうなものだった。南の島に15年通って(というと大分大げさだが)分からなかったことを、鉢植え一つで知りえたのである。ということで、お見せしている写真は妻が買ってきた「フラミンゴ」という品種のハイビスカスである。つい昨日、家の玄関の脇で撮影した。

 今回も、「先入観で物事を見てはいけない」と前回と全く同じ教訓を導いて終わりである。それにしても、遠く赤道以南のソロモン諸島のことを書いていたのに段々と距離が近づいてきて、ついに自宅の軒先で撮った写真をお見せすることになってしまった。次回のネタは一体どんな写真にしたものだろうか。


題名:東郷元帥の信仰
記入日:平成16年6月10日
撮影日:平成16年5月17日
撮影場所:福岡市博多区東公園

  福岡県庁や九州大学病院に用事がある者が、最寄り駅である「吉塚」(鹿児島本線で博多からひとつ東京寄り)から歩いていくと、必ず目に入る巨大な銅像がある。これは明治37年に建立された、高さ11mの日蓮上人立像(「りゅうぞう」と読むのだそうだ)であり、建立には岡倉天心も参画しているという。私の家の仏壇は日蓮宗のものであり、私も日蓮信者の一人ということになるのだが、盆と彼岸だけの大変不真面目なあるいは典型的な仏教徒なもので、福岡にこんな立派な銅像があるとはちっとも知らなかった。福岡では日蓮上人像のことを誰でも恐らくは知っているのだろう。が、その像の脇に小さな東郷平八郎元帥の胸像がひっそりと置かれているのは博多っ子にも余り知られていないかも知れない。

最初目にした際には、この場所に東郷元帥の胸像がある理由を、バルチック艦隊を見事撃退して国の危機を救った業績を元寇の際に国難を予言した日蓮上人の故事になぞらえてのことかと思ったのだが、ちょっと違っていた。そういったこともあるかも知れないが、東郷元帥が熱心な法華経の信者だったから、というのが正解であったのでわたしは驚いたものだ。石原莞爾や北一輝などが熱心な日蓮主義者であったのは良く知られた事実であるが、東郷元帥が日蓮宗の篤信者というのは意外であった。というのも、わたしの生半可な知識からは明治維新の前後に薩摩では徹底的な廃仏毀釈運動が行われていたもので、代表的薩摩人の一人である東郷元帥が熱心な廃仏論者とはいかずとも、少なくとも強く仏教に傾倒することはなかろう、という先入観があったからである。それと、元帥が敬神家で死後神社に祭られた(本人は生前既にその運動があるのを「もっての外」と言っていたそうだが)ことも大きいであろう。先入観でものを見てはいけない、という教訓の見本のような事例ではある。

また、元帥の胸像の直ぐ後ろには、「砲身臺座工事費寄附者」と書かれた石碑がある。像のすぐそばに日本海海戦に参加した日露いずれかの軍艦の備砲が飾られていたらしいのだが、残念ながら砲身も台座もこの場にはなく、「砲身」の正体を推測できるようなものは何も残っていない。銅像の管理事務所(お寺ではないので寺務所ではない)に尋ねてみたが、戦時中の金属供出で撤去されたらしい、ということしか分からなかった。その代わりに、銅像を照らす照明塔の支柱になっているのが軍艦のマストだよ、と教えてくださった。全然気付かなかったが、見れば確かにそれらしい、鋼板を丸めた筒をリベットで留めた造りである。これも「砲身」の主の同じ軍艦のものかもしれないが、果たしてどの軍艦の砲だったのか、気になって仕方がない。御存知の方がいらしたら是非教えていただきたいもんだが、一方で自力で調べてみたい気もするのである。住処の八幡からでは博多に出るのも一苦労なので何時になるかは分からないのだが。


題名:思いがけない出会い
記入日:平成16年5月30日
撮影日:平成16年5月16日
撮影場所:愛媛県八幡浜市

  旅の楽しみ方というものは人それぞれで随分違うものがあるだろうが、わたしにとってはその醍醐味の筆頭は「思いがけない出会い」かも知れない。名所旧跡やその土地出身の偉人などについて色々と調べてから旅に出るのは大事な訪問先を見落とさないためには大事だが、時として調べているときの方が想像が膨らんで楽しかったりもする。
 先日、住んでいる北九州からフェリーで愛媛の松山に渡って、高知との県境に近い御荘町というところまで「紫電改」を見に行ったときのこと。同じルートで帰るのも芸がないので帰りは宇和島と松山との中間にある八幡浜という町から別府へと船で渡ることにした。八幡浜の駅から港まで、少々時間に余裕があったのでゆっくりと裏道を歩いていたら、もう少しで港に着くというところに古そうな八幡神社があった。

 古い寺社の境内にはその地の歴史を記した石碑などがあるので、旅先や散歩の途中で立ち寄ることが多い。小高い山の上の神社は、石段がかなり急でまた雨で濡れてもいたもので荷物を持ってその石段を登るのを一瞬ためらったが、せっかく来たのだからと上がってみた。階段の中腹に横に行く道があって、すぐ横に置いてある石碑の碑文を読むと、大正時代に神社に寄進した氏子たちのの名前が記されているのみで少々期待はずれだったが、ふとその足元を見ると目立たない小さな碑に「一金壱百圓 二宮忠八」と書かれているではないか。二宮忠八といえば飛行機の発明に情熱を注いだ人物として飛行機ファンの端くれなら名前くらいは知っている。この旅の少し前に読んだ雑誌に忠八の記事があって愛媛県出身と書かれていたが、この八幡浜の出であったか。
 偶然にしては良く出来た出会いに感激しつつ神社を後にすると商店街のアーケード入り口の看板にはデカデカと「二宮忠八翁誕生の地 ときめきショッピングGINZA」と書かれていて、「烏型飛行器」のイラストが描かれている。どうも忠八翁は町おこしの材料にされているようだが、わたしもこの地に行くまで生誕地のことを知らなかったのだから、よその県には宣伝があまり届いていないものか。

 それにしても、改めてこの「飛行器」のイラストを見ると、確かに飛行機の形はしているが本当にエンジンを付けて飛行することは出来たのだろうか。翼は曲面で出来ていて強度を出すのが難しそうだし、プロペラは船のスクリューのようで効率が悪そうだし、疑問無しとしない。だが、やはり日本人としては歴史の「If」に賭け、ライト兄弟以前の飛行可能性を信じるのが良いのかもしれない。何の気なしに立ち寄った町でこういう出会いがあったという、ただそれだけだけで忠八に今は何となく親近感を覚えている。飛行機を一機見るだけが目的の慌しい行程だったが、最後にこのような思いがけない出会いがあると、実に思い出深い良い旅となる。単に事前の調査不足の結果だったとしても。


題名:痛恨の失敗
記入日:平成16年4月30日
撮影日:平成元年3月11日
撮影場所:ソロモン諸島カミンボ付近

今回お見せするのはひどい色むらのある写真だが、ガダルカナル島撤退の舞台となったカミンボと思われるあたりの海岸である。こんな写真になってしまった事情について、わたしの失敗談をご披露したい。

学生のときに春休みを利用してソロモン諸島に行った帰り、ブーゲンビル島で暴動に巻き込まれて散々な目にあったことは手記に書いたとおり。このときは滞在が延びたり航空券を買いなおしたりと、余計な出費でずいぶん借金を作ってしまった。その頃わたしは結婚式場でのビデオ撮影という、学生には結構割の良いアルバイトをしていたので借金完済までそれほどは掛からなかったが、借金がなくなると次の旅行に出たくなるもので、ソロモンで撮影したスライドフィルム50数本の現像もしないうちにまた海外に出掛けてしまった。なので、家の冷蔵庫のかなりの部分を占めるに至った未現像フィルムの山を普通に現像に出すと、海外旅行に一回行けるくらい費用が掛かってしまう。このお金を何とか節約しようと考えた末、無謀にも自家現像に乗り出すことにしたのだった。

これを実行するためにカメラ屋で現像タンクなどを買い込み、現像液は当時「東洋現像所」から名前が変わったばかりのコダックイマジカ社で購入した。わたしは写真サークルなどには入っていなかったのでやり方を教えてくれる人もおらず、インターネットなどという便利なものもない頃で「暗室技法入門」という本一冊だけ買って自己流でやってみる。風呂場を暗室にしてフィルムをリールに込め、現像液の温度管理はバケツの湯に現像タンクを浸してやった。液のにおいと格闘しながら仕上がったフィルムは色のバランスも悪くなく、これは行ける、と思ったものだった。が、乾燥させたポジをルーペで仔細に見ると終わりの方の何コマかに縞状の色むらが出来ている。どうやら液を注入排出する際に流れる跡がついてしまうのだと判断し、その後は現像タンクを回転させながら排出したりと色々試してみたが結果は変わらず、結構な枚数をオシャカにしてしまった。上の写真がその色むらが出た失敗作である。

写真を撮る者にとっては何物にも換えがたい撮影済みフィルムを、現増代をけちったために駄目にしてしまうとは今思い出しても激しく後悔するのだが、この経験も後で役には立った。ソロモンで青年海外協力隊員の活動する姿を見たわたしは何とか自分も参加しようと、アルバイト経験を活かして映像関連の職種で協力隊を受験したのだが、筆記試験に「E-6現像プロセスの手順を述べよ」という問題が出たのだった。待ってました、とばかりに身をもって体験したとおりの処理時間、温度管理や遮光について存分に書いて、お陰で合格することができた。自分に取って協力隊参加はその後の人生の原点ともいえるものだったから、自家現像に挑戦していなかったら、あるいは今の自分はなかったかも知れない。かなり言い訳めくが、そう思うことで貴重な写真を駄目にしてしまった悔しさを慰めるようにしている。


題名:オーパーツ?ではありません
記入日:平成16年4月21日
撮影日:平成元年3月11日
撮影場所:ガダルカナル島Vilu Village戦争博物館
 その時代や場所にある筈のないもののことを「オーパーツ」(Out-Of-Place ARtifacTSの略)と呼ぶらしい。例えば、古代の遺跡から電気精錬しなければ出来ない筈のアルミニウム片が出土したら、それはオーパーツ、ということになる。

 この写真の、ガダルカナル島戦争博物館にある九七式中戦車の47mm新砲塔も、大げさに言えばオーパーツということになる。というのも、定説ではガ島戦では旧砲塔のチハ車しか参加していないことになっている。手近にあった「陸軍機甲部隊」(学研)を見ても、ガ島総攻撃に投入された独立戦車第一中隊は『急遽編成された部隊で装備が間に合わなかったため、この中隊は短砲身五七ミリ砲搭載の「チハ」であった』と書かれている。だが、写真の砲塔が別の場所から運び込まれたとは考えにくいので、マタニカウ川の戦いに参加して全滅した独立戦車第一中隊には少なくとも一輌の新砲塔チハがあったということである。

 と、いかにも私が新発見をしたかのように書いたが、実はこれを指摘してくださったのは高名なBUNさんである。わたしは一度しかお会いしたことがないが、そのただ一回の貴重な機会にこの砲塔の写真を見せたわたしに、「ガ島総攻撃には短砲身のチハしか参加してないことになっているんだよね」と教えてくださった。わたしといえば、何か言わねばと緊張していて「総攻撃って川口支隊のですか?」と何ともとんちんかんなことを聞き返していたのだから情けない。

 要は、不確かな情報がいつしか定説になってしまったということだが、だからと言って知って得意になるほどのことでもなかろう。新砲塔装備車の参加が知られてこなかったのは部隊編成の書類上、新砲塔装備の車両も旧砲塔のも区別されていなかっただけのことではなかと想像する。戦車隊が一夜で全滅してしまったことも、情報が正しく伝わらなかった原因ではなかろうか。こういった事例は数限りなくあるのかと思うと、地道な研究や斬新な発想で戦史や歴史の空白を埋める作業をされている方にこそ、わたしとしてはは頭を下げたい。


題名:米軍の置き土産
記入日:平成16年4月11日
撮影日:平成元年3月17日(相棒撮影)
撮影地:ソロモン諸島ギゾ
 戦史や戦記に少しでも興味をお持ちの方であれば、大戦中米軍が多用した穴あき鉄板のことをご存知であろう。これを一番重宝したのが飛行場整備であって、大雨で地面が泥濘と化してもこの鉄板を敷き詰めれば離着陸には何の支障も無く、また砲爆撃で滑走路に大穴があいてもこの穴あき鉄板でたちどころに補修できた。連合軍には大助かりの、日本軍にとっては恨みの残るアイテムである。

 しかしながら、この米軍定番の穴あき鉄板が現在も置き土産として重宝されていることは戦記本には書いていない。この写真はソロモン諸島ギゾで撮ったものだが(相棒撮影)、側溝の渡し板だけでなく、後方の囲いにも使用されているのがお分かりいただけようか。軽量にして丈夫、しかも穴が規則的に並んでいるから適当な大きさに切るのも楽、針金でしばって留めるにも便利。戦後5、60年経って(この写真の時点では44年だが)なお現役という、素晴らしい素材なのである。このようなものを戦場に大量投入できる相手との戦争は、やはりできることなら避けたかったものである。

 もっとも日本軍の側でも、滑走路に鉄板を敷くくらいのことは当然行っているが、やはり物量勝負では敵わない。二〇四空編「ラバウル空戦記」(朝日ソノラマ)に紹介されているエピソードは象徴的である。昭和17年10月ブイン飛行場が完成し、先発隊が着陸する際、雨で柔らかくなった滑走路に鉄板を敷いたのだが、「米軍のように統一された規格のものを全面に敷きつめるのではなく、ほんの一部に、それも日本製やら分捕った敵のやらでサイズもマチマチだった」ため、鉄板の終わったところで転覆する機が相次ぎ、7機もが失われたという。



戻る
戻る