許しー過去のこだわりを清算する
私たちは生きていく中で、誰かに侮辱されたり、許しがたい状況に出くわすのはよくあることです。また、自分がうっかりして失敗したり、まずいことをした場合などは、自分自身を許せず責めることもよくあることです。許せない状況が起こったとき、まずはこの状況を許せないと判断したその考えが自分の育ってきた条件付けによって起こるもので、他の見方ができないかどうかを考えてみるのが必要でしょう。私たちはそれぞれ違った信念を身につけているので、相手の行動や考えを自分の好みの信念によって判断してしまう傾向があるからです。
しかし、どのように考えても納得がいかない場合もあり、意見の食い違いは平行線をたどるばかりの時もあります。そしていつしかその話し合いは終わり、許せないという感情、こだわりだけが残ります。問題は私たちはそのような感情やこだわりを、しばしば思い出し、繰り返し他者に攻撃的になったり、自分を責めつづけます。一回の過ちに対して、何度でも自分を責めてしまうのです。このような反応は、自動的になっているため、同じような状況に出くわすたびに繰り返してしまいます。心は自分を責めるたびに縮まり、相手を責めるたびに自由を失うことを自覚することが肝要です。
このようなことを繰り返さないためには、過去に起こったことは起こったこととして受けとめ、そこですべて終わりにしてしまうという心の作業が必要になります。過去のこだわり、相手がどのように思っていようが、他人を変えることはできないということを理解し、自分の心の中で、許しを行うのです。許しとは、自分が相手に持っていた期待や判断をキャンセルするということです。そして過去のこだわりを清算するとは、もう一度、相手に対して心を開くことです。
スティーブン・レヴァインは過去を清算することについてこう言っています。
「過去のこだわりを清算するとは、必ずしも、信じあえなかったり傷つけあったりした、過去の個々の出来事のいちいちを清算することを意味しない。清算するとは、相手に心を開くこと、つまり恨みや恐れのために心を閉ざしていることや、相手に今も望んでいることなど、その一切を手放し、ただ、相手に愛を送ることを意味する。もっとも深い分かち合いを妨げていたものを手放し、あるがままの相手に愛をこめて心を開く。相手がこうであったらとか、自分がこうであったらなどと願うのではなく、清算する必要さえ超えて、一体性に心を開くこと。もはや許されたいと望むことも、相手がどんなに間違っていたかを証明したいと願うこともない。分離した他者に対する分離した「私」というイメージを超えて心を開き、柔和な受容性の中で、ただ自分自身と共にいるとき、過去は清算されるのである。
一切を清算したように思われる人とは、今現在、ただこの瞬間に生きている人である。禅の師、鈴木俊隆老師は、こう言っている。「人は燃え盛る火のように人生を生きるべきだ。そうすれば後にはなんの痕跡も残らない。一切が燃え尽きて白い灰だけになる。」すべての行為がそれほど完全に、全身全霊で行われるなら、一瞬一瞬が存在への参与になる。在ること以外、なすべきことは何も残らないのである。」
この「許し」を行うのが困難なのは、私たちの自己イメージである自我が、「許せない」といった他者からの分離を強調することに感情的に支えられているからです。よって、自我にとって「許し」を行うことは、敗北を意味し存在基盤を脅かされるほどの動揺と恐れがあるのです。自我の感情の基調は、けっして許さず、けっして忘れないということです。従って許しは、怯えた自我を手放し、本来の自己を見出す方法となるのです。許しによって、意識は自我やそれに対して加えられた侮辱を手放し、そのかわりに「私」と相手を平等に眺める「観照者」あるいは、本来の心に立ちかえっていくのです。自我を越えた意識の成長によって、過去のこだわりを意識的に忘れることを選択することができるのです。
現代アメリカのセラピストの間でよく引用される「奇跡についてのコース」という教えでは、許しが最も重要な位置をしめています。
「あなたが望むもので、許しが与えることのできないものがあるだろうか?平和がほしいのか?許しがそれを与えよう。幸福、平静な心、確固たる目的、それに世俗を超えた意義と美がお望みか?常にいたわりと安全を得、暖かく守られていたいのか?乱されることのない静けさ、けっしてくじけないやさしさ、全身にしみわたるような慰め、ゆるぎなき落ち着きがお望みか?
許しはこれらすべてを、いや、さらにそれ以上をあなたに与える。
許しは私が求めるすべてを与えてくれる。
今日、私はこのことを真実として受け入れる。」
日常生活において他人の無神経を許すことができない、言いかえれば、苦痛を与えたという理由で他人を許すことができないと感じるとき、「奇跡についてのコース」の次の一節を思い出してみましょう。
「愛を込めて他人を許す行為の中に、聖なるものが宿る」
そして、一日を次のような決意を持って始めるようにと、ジャンポールスキーはいいます。
「今日、私は自分自身と、そして他の人々に対する過去の誤った見方を捨て去る。そしてすべての人と一体になって、まわりを、そして自分自身を「心から許す」という観点から見つめなおしてみよう。」
自分を許すための瞑想
しばらくの間、許しとはどんな状態かを考えます。
では、あなたが大いに腹をたてたり恨んでいる誰かのイメージを心、正確にはハートの中に思い浮かべてください。
しばらくその人のことを胸の中央で感じてください。
心の中でその人に言ってください。「あなたを許します。あなたが過去に行ったこと、故意であろうとなかろうと、思いやことばや行為によって私を傷つけたことの一切を許します。あなたを許します。」
その人をゆっくりとあなたの心へと招き入れて、そこに留めてください。
たとえそうすることが非常に困難だと感じたとしても、自分を非難しないように。無理をせず、あなたのペースでゆっくりと、その人に心を開きましょう。
その人にいいましょう。「あなたを許します。故意であろうとなかろうと、あなたが、思いや言葉や行為でこれまで私に与えた苦痛を許します。あなたを許します。」
そっと、優しくその人に心を開きましょう。もし心が苦痛を感じるなら、感じるままにして、ゆっくりとその人に心を開いてください。その恨み、燃えるような怒りが、穏やかに、どんどん優しくなっていきます。許しです。
「あなたを許します。」
心の底からその人を受け入れましょう。誰かを心から閉め出しているのは、とても苦しいものです。
「あなたを許します。」
もう少し心を開き、その人を受け入れましょう。ほんの一瞬でもいいから、心を開いて許し、恨みを手放すのです。その人が許されるのを認めてあげてください。
では、今度は、さらに許しへと心を開きながら、あなたが許してほしいと思っている誰かのイメージを心に浮かべます。
心のなかでその人に話しかけてください。「私がこれまでに、思いや言葉や行為であなたを傷つけたとしたら、どうか許してください。私にはそのつもりがなかったことでも、あなたを苦しめたのだとしたら、許してください。」
「本来の自分を忘れたために、あるいは、恐れていたために言ってしまった言葉、心を閉ざし混乱していたために言ってしまったことを、どうぞ許してください。」
その許しを受け入れることを妨げることがないよう、自分自身に怒りを抱いているなら、それを手放してください。自分が許されるのを受け入れるのです。
自分自身を解放してください。
自分にはその資格がないという思い、自分への怒りが湧いてきたら、それをそのままやってこさせ、それから消えていくのにまかせます。すべてを手放しましょう。
許しは可能だということを、心の底から受け入れてください。
「これまでにあなたを傷つけたすべてを許してください。私がやったこと、言ったこと、思ったこと、すべてを許してください。」
自分自身を心から閉め出しているのはとても苦しいことです。
自分を心に招き入れて、自分に向かって言ってください。「あなたを許します」自分を拒まないでください。
自分の名前を呼んで、心の中でいいましょう。「あなたを許します。」そのことばを受け入れましょう。あるがままに、素直になってください。あなたの心に、自分を受け入れるための余地を作るのです。
「あなたを許します」
一切の恨みーそれが消え去るままにしてください。
自分を許すことを受け入れ、自分の中に許しの空間を作ってください。
その苦痛、その苛酷さ、自分を裁く気持ちを手放してください。
自分自身に向かっていいましょう。「あなたを許します」
愛のある思いやりの輝きを自分自身に向けてください。心を開くのを自分に認めてあげてください。その光、自分への思いやりを育てるのです。
自分を許すこと
自分にはその資格がないとか、自分を甘やかすことになるのではないかという恐れがあると、裁く心の冷酷さを決定的に手放すのが邪魔されます。その恐れが許しを妨げている様子を見守ってください。
自分を許すことの中に、自由をみてください。その痛みにこれ以上一瞬でもしがみついていたいですか?
愛の場所を感じ取り、そこに入っていきましょう。
自分を許すという慈しみ、思いやりを自分に認めてあげてください。
理解と許しと安らぎの広やかな心に、自分自身を優しく漂わせてあげるのです。
自分を愛することがどんなに困難かを感じてください。混乱に囚われているすべての事柄の核心に触れ、その痛みを感じてください。それらを許しましょう。
自分自身を許しましょう。あなたの愛の広大さを隠している痛みを、穏やかに手放しましょう。
許すことは冷たい仕打ちを大目にみることではない。ただ、その瞬間、未熟な行為者が未熟さゆえに未熟な行為をするに至った事実を認めることだ。盗みを容認するのではなく、盗みを働いたものの失意に関心を向けるだけだ。英知を行動に現したものが思いやりであるのと同じように、慈悲心を行動に現したものが許しだ。
一般に許しを邪魔しているのは、誇りと恨みである。恨みが生じると、我々はふつうただちにそのなかに飛び込み、空間を失ってしまう。恨みと同一化してしまい、恨みとは単に古い欲望やこだわりによる不満に過ぎないことを理解せずに、自分を閉じてしまうのだ。しかし、恨みを探究の対象として利用することもできるのである。そうした、心の状態を批判したり恐れたりせずに、そこに在ることを許容するなら、心が開かれ、自分が分離から愛するのではなく、ただ、他者と共に「愛の中に」いることが分かる。それは、愛の空間を共有すること、存在を共有することである。そのとき我々は、心が抱く恐れを越えて、物事の核心に深く沈潜する。
スティーブン・レヴァイン 「めざめて生きめざめて死ぬ」より