瞑想ー意識変容の王道

瞑想とは何か?なぜ特殊な霊的修行をしなければならないのか?

「癒し」という言葉がブームになって以来、一般の人でも瞑想や坐禅をする方が増えてきています。そういった人は主に、自分の健康の維持やリラクセーション、心の悩みの解決を目的として行われています。瞑想が、自律神経を安定させ、ストレスを解消し、自尊心を養うことは本当ですし、医学的にも証明されています。現代医学を補足する代替療法としてこれからますます重要になってくると思います。こういったことは大変結構なことですが、ケン・ウィルバーの主張は、瞑想は本来、スピリチュアルな実現を目指して考案されたものであるということです。

「私が強調したいのは、瞑想それ自体は常に霊的な訓練だったということです。キリスト教、仏教、ヒンドゥー教、道教、あるいはイスラム教のものであれ、瞑想は魂の奥に向かって進んでいき、最終的には神と一体化する、崇高なアイデンティティを見つけ出す方法として生み出されたものです。瞑想がどういうもので、どのような利益をもたらすものだとしても、本来は内なる神を探究するための、第一の、かつ最高の方法なのです。」

瞑想とは、様々な宗教が独自に持っている実現への手段の総称なのです。つまり「永遠の哲学」が伝えてきた普遍的な真理を解き明かす重要な部分なのです。従ってそこには共通するプロセスと効果が働いています。このプロセスが分かれば、私たちが意識を発達させるのに、なぜ瞑想しなければならないのかが理解できるでしょう。普通に生活し努力するだけでなく、なぜ特殊な霊的修行を採り上げなくてはならないのか。一見奇妙に思える修行はどのような意味があるのか。ウィルバーの「アートマン・プロジェクト」を基に探っていきましょう。

現代においては、悟りを求めるために個別の宗教にこだわらず、様々な瞑想が試みられています。ニューエイジや精神世界と呼ばれる人たちは、自由な環境の中で個人的な探究を進めています。ニューエイジは幅広く特定するのが難しいですが、ウィルバーは、こういった人たちの瞑想に対する理解には、発達的な視点が欠けているのではないかと指摘しています。瞑想すれば一足飛びに悟りへ向かうものだと思い、瞑想の中のヴィジョンや境地をすべてスピリチュアルなものと判断すると言う、「前/超の虚偽」に陥っているというのです。

「前/超の虚偽」とは、自我が発達する前の意識状態と自我が発達した後の意識状態を、どちらも非自我という点で同じなので一緒にしてしまうことです。自我が生まれたのがすべての問題の根源であると主張する人は、前自我の状態や幼児の大洋感情などを霊的な状態と判断してしまうのです。単に人類に共通する集合的なものと霊的なものとは違うのです。この過ちの典型はユングでした。反対に、フロイトは逆に霊的な領域をすべて性的な衝動に引き下げるということをしました。ウィルバーにおいては、前個的状態から個的状態に発達し、個から超個的状態に発達すると理解します。幼児はスピリチュアルであるといういい方がありますが、悟りはすべてを包括しているので幼児は最も悟りから遠い存在になります。そもそも他者を思いやることもできません。神秘家が真の霊的体験について「元にもどるのだ」という表現を使った場合に意味しているのは、幼児に戻るのではなく、自己が存在する以前、時間が発生する以前の無形の意識のことを言っているのです。それは決して歴史において昔なのではなく、宇宙が始まる前の時のない瞬間について語っているのです。

従って、まず瞑想とは個から超個への発達への持続的な手段であり、高次の意識を想起させるものなのだということを理解することが重要です。
「瞑想とは、唯一の統一が存在するようになるまで、あらゆる潜在的な可能性の実現に向けて、またあらゆる深層構造が意識として開花する時点に向かって、次々により高い秩序をもった統一が自然の流れに従って花開く開花である。現在の人間の進化段階にいる個人が、現在の進化の段階を超えて発達し、すべての生き物の究極目標である<一なるもの>に向かって前進するためにしなければならないもの、それが瞑想である。」

発達のメカニズムで述べたように、意識の発達/超越は、特定の段階の変換が衰えると、次の段階のより包括的な変換への変容が起こります。例えば子供が衝動や情動のままに行動していたところを(子供は衝動が起こるとそのまま表現するという変換を常にする)、徐々にそのような行動が衰え、周りの人に順応する変換を覚えるように(変容)。瞑想においてもこれと同じ事が起こります。自我的な変換を衰えさせ、次のより包括的な変換を強要するのです。それゆえ、瞑想とは発達であり、変容なのです。

「実際、瞑想に関して特別なことは何もない。自我にとって瞑想がことのほか神秘的で不可解に思えるのは、それが自我を超えた発達だからである。発達の度合いが進んでいることを除けば、自我にとっての瞑想は、幼児にとっての自我みたいなものだ。すべての段階は、同一の発展と成長のプロセスを経る。私たちが幼児から自我に至る道程は、自我から神に至る道程と同じなのである。私たちは成長するのであって、後戻りするのではないのだ。」

発達とは、必然的に現在の特定の変換が弱くなるか、あるいは明け渡すことが前提となります。自我までの発達においては周りの大人からの引き上げもあり、比較的この変換の明け渡しはスムーズに行きます。(特定の段階への固着を起こさない限り)わがままな子供もだいたいは社会のルールを身につけます。現在の平均的な意識が自我の状態にある場合は、自我が成長するために普段の変換を明渡すにはそれなりの実践が必要です。

「こういった自我的変換は、ふつう、言語的思考や概念(それにそういった思考に対する情緒的反応)によって構成されている。従って、瞑想は、まず、微細レベルの変容へ至る道を切り開くために、概念的な変換作業を中断する方法からなっている。本質的に、これは現在の変換をいきづまらせ、新たな変容を鼓舞することを意味する。このいきづまり・鼓舞は、祈り・詠唱・瞑想といった内的状態、および道徳的戒律、食事制限、誓いといった<特殊な諸状態>によって生じる。」

自動的な思考、自己中心的な考え方、物事に言葉を与えて分けて見る見方を、<特殊な状態>を自分に課して立ち切るのです。それではなぜ<特殊な状態>が自我から脱同一化するのに役立つのでしょうか。数ある行為の中で、なぜ霊的修行と呼ばれる<特殊な状態>でなければならないのでしょうか。

特殊な諸状態の核心は、追求されている高次領域の主な特徴を体現する活動にある。つまり、個人は望まれる高次領域のおもだった特徴の一つに従って、自分のリアリティ(現実)を変換しはじめることを教えられるのだ。そのため、彼は象徴(シンボル)を用いることにより、単なる変換の代わりに変容に心を開くのである。例えば、密教の本尊を例にとると、個人は仏性のシンボルを見せられる。このシンボルは、まさにシンボルであるがゆえに、彼の現在のリアリティの中の何物にも対応しない。彼は、微細領域の本尊が実際に深層構造から浮上し、完全に自覚されるようになるまで、このシンボルをみずからの意識の中で構築もしくは変換する。(あらゆる発達の段階で説明したように)個人はこの高次構造に同一化し、それが自我としての低次の変換を中断させ、彼を高次の構造に引き上げる。そのとき、彼はより高度な神性の視点からリアリティを眺める(変換する)。彼の場合、微細領域の構造が浮上したのだ。というのも、彼はみずからの深層構造からの成長と超越の一つのプロセスとしてそれを喚起したからである。導師というものは、特殊な状態を強要することにより、古い変換をゆきづまらせ、古い抵抗を根こそぎにし、新しい変容を鼓舞しつづけているにすぎない。」

瞑想とか霊的修行とは、子供にとっての言葉や規則、合理性のように、高次の意識状態がふるまう行為にほかならないのです。子供に自分の事だけを考えるのではなく、周りの人の事も考えるようにと言うように、私たちには、すべての存在にとって望ましいことを<考える>だけでなく、慈悲を持って<実践>するようにと言われるのです。またリトリートなど人里離れて集中的に瞑想に打ち込むなどして、日常的な思考が働くことをしづらくなる状況を提供します。しばらく思考はさまよいますが、やがて自分の心の本質に返って来ざるを得ないということになるのです。伝統的には方便といい、一見修行とは関係ない状況を作り、自我の変換を止めさせることもあります。師のしぐさや何気ない一言、あるいは突然の音など。タントラの伝統では、「荒れ狂う智慧」と呼び、かなり荒荒しい仕方で、自我を粉砕することもあります。自我の変換の明渡しは、穏やかに進むこともありますが、たいがい自我は現在の安定した変換にしがみつきますので、「荒れ狂う智慧」の一撃が必要になるのでしょう。探究者は、実際に成長するまで、高次の活動を振舞うこと、つまり高次の変換を採用することによって、変容するのです。

高次領域の主な特徴にはこのようなものがあります。
「常に今にとどまれ」「どんな状態においても、ひたすら愛をであれ」「自らの瞑想や世界と一つになれ」「すべてはブッダであるから、すべてを受け入れろ」「自らの逃避の数々を認識せよ」「すべては幻想であるから、何事にもとらわれるな」など。

「両親は、言葉や自我的自己制御という特殊な諸状態を課す事によって、私たちが一階から五階に上るのを助けた。それと同じように、師は、十階の特殊な諸状態を修行として課す事により、私たちが五階から十階に上るのを助けるのである。その特殊な諸状態が、集中的没入的な瞑想様式を用いようと、受容的脱焦点的な瞑想様式を用いようと、本質的な問題ではない。前者は、停止させることによって、後者は見つめることによって低次の自我的変換を断ち切る。それら二つに共通していることが、双方の本質的で効果的な点である。すなわち、集中によって変換を妨害したり、焦点を定めないことによって変換を眺めることは、一段上のレベルからのみなされうるのである。」

あらゆる瞑想は自我を超えた意識を目指しますが、すべてが同じ段階の意識状態になるということではありません。「自己」から「自己」への道の道で示したように、霊的段階は概ね、三つに分けられます。心霊段階、微細段階、元因段階。ウィルバーは、この三つを、仏教の三身論に対応させて述べています。

「最初は応身(ニルマーナカーヤ)クラスで、身体的及び生体エネルギーと、それらの心霊領域への変成とを扱うもので、チャクラのサハスラーラにおいて頂点に達する。これには、ハタ・ヨーガ、クンダリーニ・ヨーガ、クリヤ・ヨーガ、プラーナーヤーマ、そして、とりわけ、あらゆる形態のタントラ・ヨーガが含まれる。応身クラスは、パタンジャリなどによって例証されている。
第二は、微細領域を扱う報身(サンボーガカーヤ)クラスである。これはサハスラーラの内外に秘められた至福と可聴性の自覚からなる七つの内的領域を目指す。このクラスは、ナーダ・ヨーガ、シャブダ・ヨーガを含み、キルパル・シンによって例証されている。

第三は、元因領域を扱う法身(ダルマカーヤ)クラスである。これが働くのは、タントラ的なエネルギーの操作をとおしてでも、微細な光や音への没入をとおしてでもない。意識自体の元因領域の探求、自己性や分離した自己感覚の探求をとおして働くのだ。さらにまた元因領域の超越的観照をとおしても働き、それはあらゆる形の主体客体の二元論が根こそぎにされるまで続く。このクラスは、ラマナ・マハリシ、禅仏教、ヴェーダーンタ、ゾクチェンによって例証されている。それぞれの道の終点において、人は全領域に先行する<真如>すなわち自性身に落ちる可能性がある。これは最初に採用する道が高次であればあるほど、容易に起こりやすい。」

具体的な瞑想の過程については、ウィルバー自ら行った禅の修行からこのように述べています。
「ではここで、一人の若者が、集中的な公案か受容的な只管打坐、いずれかの方法で禅の実践を行うと仮定してみよう。これらは双方とも正しい仕方で行えば、法身(元因段階)の実践である。よって、中間の諸段階で、あらゆる種類の低次レベルの兆候が現れることが予想できる。まず、瞑想の実践は、停止する(公案)か見つめる(只管)ことによって現在の自我的変換を断ち切りはじめる。現在の自我的変換が緩みはじめると、個人は初めて意識にのぼらない潜在的無意識にさらされる。この無意識は、その多くの内容の中に、「無数の気づかれなかった経験の諸側面、すなわち習慣、条件付け、緊急事態などの理由で締め出された諸側面」を含んでおり、あらゆる種類の奇妙な記憶が浮上する。潜在的なものが自覚に再浮上し、内なる目の前で踊るのを見る映画鑑賞に数ヶ月費やされる場合もありうる。」

潜在的無意識とは、個人の生涯において、かつては意識的であったが、現在、自覚から締め出されているものをさします。瞑想を始めると、現在の生活で気になることが止めどもなく流れてきます。それをただ眺めていると、次には、潜在的な無意識層である、意識的な自分とはあいいれないとして抑圧した思考や感情が、湧きあがってきます。

そして瞑想がある程度進むと、次には抑圧されてきた部分ではなく,抑圧する側である自我の核心が自覚の対象として現れます。自我のレベルでの意識は、自我そのものに対象として気づくことはできません。自我的変換を緩めることにより、自我との無意識的な同一化から離れるのです。従って、抑圧する側の自我が緩められると、抑圧されてきたものもどっと自覚に押し寄せてきます。しかし瞑想は元々高次の領域を浮上させるものであるため、無意識である影との取り組みは、セラピーや心理的ワークを受けたほうがいい場合もあります。ウィルバーは、瞑想と心理療法の併用を特に薦めています。

「瞑想のこの段階までに起こったのは、個人が、自我的変換と無意識の解除をとおして、その時点までの人生をたどり直すということである。彼はすべての精神外傷、固着、イメージ、そして、これまでの人生で現れてきた全意識レベルの影と対面する。そういったものは言わば再吟味されるために浮上してくる。なかでも、特に再吟味を必要としているのは「傷ついた場所」つまり、五段階までに起こった固着や抑圧である。瞑想のこの時点までに、彼が見てきたのはみずからの過去と人類の過去である。そして、これ以降、彼はみずからの未来と人類の未来を見ることになる。

「傷ついた場所」の癒しがある程度済めば、意識は重荷を降ろしたように上昇していきます。そして微細な意識に変容します。
「微細領域が深層構造から自覚の中に浮上してくると、様々な高次の元型的ヴィジョン、音、光明が湧き起こってくる。肝心なことは、より微細な変換が現れ、最終的にそれらが掘り起こされると、より微細な新たな変換への変容が起こるということである。

しかしこういった微細な音や光明は報身の到達目標ですが、法身はそれらをすべて魔境とみなす。このようにして、瞑想が続き、元因領域に入っていくと、以前の粗や微細の対象がすべて意識そのものの身振りに還元され、究極的に、超越的な観照者や元因領域の自己性さえも空なる偉大な死の中で解体され、未曽有だが唯一明瞭なサハジャの状態が復活する。これは「無上正等覚」と呼ばれる。この最終的な変容においては、もはや、どこにも、排他的な変換は存在しない。変換者は死んでしまったからだ。鏡と鏡像は一つの同じものなのである。

このようにして瞑想は進行する。それはより高次へと向かう発達にほかならない。それは統一から統一へと向かう変容であり、最後に残されるのは統一だけである。そこで、ブラフマン(ヒンドゥー教における神性)は密かな認識と最終的な想起にそれとなく衝撃を覚え、かすかにほくそ笑み、目を閉じ、深呼吸し、みずからを百万遍も外に向かって投げ出し、遊び興じて様々な姿となって現れる。こうして、再び、進化がはじまり、変容につぐ変容が起こり、しだいに多くのものが想起されていく。そして、それぞれの魂がすべて、ブッダとしてブッダの中で想起する地点にたどりつく。その時もはやブッダも、魂も存在しない。それが最後の変容である。」


・瞑想の発達過程においてよくある過ち
ウィルバーは、瞑想者の修行が進み、元因段階の<無形の観照者>、元因段階の自己、アートマンが浮上してくる、あるいはそれに触れようとする時に、よく間違いを犯すと言っています。この純粋に<見るもの>である形なき意識を、何か意識の対象として見えるのではないかと、予測してしまうことが誤りであるといいます。何かとてつもないものが起こったり、見えたりするのではないかと思ったりします。光や音、至福といったものが対象に起こったらそれは微細領域であり、元因的な一者ではないのだといいます。そして<観照者>から<ワン・テイスト><悟り>へ移行する時には、この<観照者>を<空>の中に溶かしてしまおうと、「取り除こうとする」ことが第二の誤りであるといいます。それはむしろ観照者を強くしてしまうのです。

ウィルバーのスートラのような美しい文章を読んでみましょう。

(1)<観照者>と接触する時に起こる過ち(元因段階への移行時)
「観照者と接触する時に、人は何かを見るに違いないと想像する。
しかし、あなたは何も見ない。あなたはあらゆるものが生起する<観照者>として単に休息するだけなのだ。
あなたは純粋な、そして空っぽの<見る者>であり、見ることの出きる何かではない。
<見る者>を特別な光、大いなる至福、突然のヴィジョンーそれらはすべて対象であるーとして見ようとしても、それらはあなたである<観照者>ではない。
結局のところ、確かに<ワン・テイスト>と共に、あなたはあなたが見るすべてになる。
しかしあなたはそうしようとすることー<真実>を見ようとすることーから出発はできない。なぜなら、それこそがそれを妨げるからだ。あなたは「ネーティ、ネーティ」(私はこれではない、私はあれではない)から出発しなければならないのだ。

つまり、<観照者>とは単に生起するすべての対象を<見る者>であり、すべての対象からの<自由>と<解放>という大いなる基底感覚として「感じられるだけであるにもかかわらず、
それを捕まえることができる対象にしようとすることで、<観照者>を破壊することが最初の誤りである。
その<自由>と<空>に休息する時ーそして、生起するすべてを公平に観照する時ー、
あなたは分離した自己が単に他のすべてと同じように意識の中に生起することに気づくだろう。
あなたは自己収縮を実際に感じることができる。
ちょうどあなたが自分の足や、テーブルや、岩を感じることができるように。
自己収縮とは内面の緊張を感じることであり、しばしば目の後ろに位置付けられ、心身全体のかすかな筋肉の緊張に固定されている。
それは世界と向き合うときの収縮の感覚であり、努力である。それは微細な身体全体の緊張である。
この緊張にただ注意を払って見よう。

(2)<観照者>から悟りへ移行する時に起こる過ち(非二元段階への移行時)
ひとたび空っぽの<観照者>として心地よく休息するようになると、そしてこの緊張が自己収縮であることに気づくようになると、
人は<観照者>から<ワン・テイスト>へ移行するためには、自己収縮を取り除かなければならない
(あるいは、自我を取り除かなければならない)とやがて想像するようになる。
それが第二の誤りである。
なぜなら、それが実際には自己収縮をしっかりと固定してしまうからだ。
私たちは、自己収縮が<スピリット>を隠し、妨害すると決め込む。
しかし、実際は、それは単に<霊>それ自体の輝ける顕現なのだ。
宇宙のあらゆる他の<形>とまったく同じように。
自我という形を含むすべての<形>は、<空>にほかならない。
そのうえ、自我を取り除くことを欲するのは自我だけである。
<霊>は生起するすべてをありのままに受け入れる。
<観照者>は自我を受け入れる。
なぜなら、<観照者>は生起するすべてを平等に映し、完全に抱擁する、公平な鏡のような心であるからだ。

しかし自我は、それがさらに身を守ることになると確信し、自らを取り除くというゲームに興じることを決める
ーなぜなら、ゲームに興じる限り、それは明らかに存在しつづけるからだ。
(他に誰がゲームに興じるだろうか?)
大昔に荘子が指摘したように、「自我を取り除こうとする欲望自体が自我の現れではないだろうか?」
自我は物体ではなく、微細な努力である。あなたは努力を取り除くために努力することはできないー
一つの努力の代わりに二つの努力を得てしまうからだ。
自我それ自体は<神なるもの>の完全な顕現である。
自我それ自体の努力を単順に増大させてしまう、自我を取り除こうとする努力ではなく、
<自由>の中に休息することによってのみ、自我をうまく取り扱うことができるのだ。

では、どのように実践すればいいのだろうか?
あなたが<観照者>に休息する時、あるいは<空>に休息する時、自己収縮にただ注意を払うことである。
<観照者>にやすらぎ、自己収縮を感じること。
あなたが自己収縮を感じるとき、あなたはすでにそれから自由になっている

ーあなたはそれと同一化するのではなく、すでにそれを見つめている。

あなたは<観照者>の位置からそれを見つめている。
それはどんな場合でも、すべての対象から自由になることである。
だから、<観照者>として休息し、自己収縮を感じること
ーちょうどあなたが自分の座っている椅子、大地、空を漂っている雲を感じることができるように。
心の中を思考が流れていき、身体の中を感覚が流れていき、自覚の中を自己収縮が漂っている
ーそして、あなたは努力することなく自発的に、それらすべてを平等に、そして公平に観照する。

その単純で気楽な努力の必要のない状態ー自己収縮を取り除こうとするのではなく、単純にそれを感じる状態
ーそしてそれゆえ、あなたである大いなる<観照者>あるいは<空>としてあなたが休息する状態
ーにおいて、<ワン・テイスト>はより現れやすくなるだろう。
<ワン・テイスト>をもたらす、(あるいは、引き起こす)ためにあなたにできることは何もない
ーそれはすでに、そして常に十全に存在している。
それは一時的な行為の結果ではなく、あなたが決して失ったことのないものである。

一時的な努力として、あなたにできる最良のことは、そうした二つの誤りを避けることである。
(<観照者>を対象として見ようとしないこと、<見る者>としての<観照者>にただ休息すること、
自我を取り除こうとしないこと、それをただ感じること。)
すると、それがあなたを自分自身の<原初の顔>の縁まで、まさに絶壁まで連れて行ってくれるだろう。
の時点では、すべては、あなたの手を離れている。
<観照者>として休息し、自己収縮を感じること:それこそ<ワン・テイスト>が最も現れやすくなる空間である。
それを戦略的な努力として行ってはならない。
自分自身のショッキングな認知の縁に常に立ちながら、一日中そして一晩中、ランダムに、そして自発的に行うのだ。」

・仕上げの実践(非二元段階への非実践の実践)

「<観照者>として休息し、自己収縮を感じる。
それをやりながら、<観照者>が自己収縮ではないことに注意を払う
ーそれはそれに気づいている。
<観照者>は自己収縮から自由である。
−そして、あなたが<観照者>である。
<観照者>として、あなたは自己収縮から自由になる。
その<自由>、<空>、<解放>にやすらぐ。
自己収縮を感じ、それをそのままにしておく。
ちょうど他のすべての感覚をそのままにしているように。
雲、木々、自我を取り除こうとしないことーそれらをそのままにしておく。
そして、あなたである<自由>の空間でリラックスする。
その<自由>の空間においてー自発的にー、
あなたは<自由>の感覚に内側も外側もなく、中心も周囲もないことに気づくだろう。
その<自由>の中を思考が流れていき、その<自由>の中を空が流れていき、
その<自由>の中に世界が生起し、、そしてあなたは<それ>なのだ。
空はあなたの頭であり、空気はあなたの呼吸であり、大地はあなたの身体である
ーそれはそれぐらい近い。
そしてもっと近くなる。
あなたがその<自由>にやすらぎさえすれば、あなたは世界である。
それは無限の<充満>である。
それは内側も外側もなく、主体も客体もなく、こちらもあちらもない、<ワン・テイスト>の世界である
ー始まりも終わりもなく、手段も目的もなく、道程も到達点もない。
これが、究極の真実である。」

「仕上げの実践」とは、非二元的段階に至る為の、非実践の実践とも言えるものです。ウィルバーは通常行っている各自の実践(瞑想、坐禅、ヨガ、気功、祈り、宗教的霊的修行)に加えて、最後にこの「仕上げの実践」を行うように薦めています。これはどんな宗派、伝統に属していようと試すことのできるものです。それぞれの実践は、意識の全段階のいくつかのレベルに焦点を合わせて、その意識を獲得しようとするものです。従って、どれか特定の意識レベルではない、非二元の覚醒を得るには不向きであるということです。

「そうした他の実践はすべて、あなたが特別な意識状態に参入することを鍛える。しかし、<ワン・テイスト>は特別な状態ではない。−それは他のあらゆる状態と溶け込んでいる。ちょうど湿り気が海のすべての波に十分に存在しているように。ある波は他の波よりも大きいかもしれないが、より湿り気があるわけではない。<ワン・テイスト>は海の湿り気であり、ある特別な波ではない。それゆえ、特別な実践、例えば祈りやヴィパッサナーやヨーガは、あなたを<ワン・テイスト>に導くことには、無力なのだ。すべての特殊な実践は、特別な波にあなたを乗せることを意図しているーたいていは、とても大きな波にー。それはそれで構わない。しかし、<ワン・テイスト>は最も小さな波の湿り気でもあるため、あなたが現在持っている自覚の波で十分なのだ。その波に休息し、自己収縮を感じ、<自由>に立とう。

しかし、あなたの行っている他の実践を続けること。なぜなら、第一に、それらはあなた自身の自覚の重要な、そして特別な波にあなたを導くからである(心霊、微細、元因)。それらはみんな、<霊>としてあなたが十分に顕現するための重要な乗り物なのだ。第二に、<ワン・テイスト>が、信じるにはあまりにも単純で、努力によって到達するにはあまりにも容易なために、多くの人々は自分が今乗っている波の湿り気に決して注意を払わないからである。多くの人々は自分自身の現在の状態の<実相>に決して注意を払わないのだ。代わりに、彼らは常により大きく、より好ましい波を探しながら自分の人生を波乗りに捧げるー率直に言ってそれは構わない。

そうした典型的なスピリチュアルな実践は、より微細な体験(神秘体験)にあなたを導くことによって、偶然にも体験に飽きることを促すだろう。あなたが波乗りに飽きたとき、どんな波に乗っていようと、あなたはその波の湿り気や<実相>に開かれる。純粋な<観照者>それ自体は体験ではないが、あらゆる体験が行ったり来たりする「開け」である。そして、霊的体験を含めて、あなたが体験を追い駆ける限り、あなたは決して<観照者>としてやすらぐことはなく、まして、<ワン・テイスト>という常に存在する海の中に入っていくことはない。しかし、体験に飽きるとき、あなたは、<観照者>として休息し、<観照者>であるあなたは、<湿り気>(ワン・テイスト)に注意を払うことができる。

その時、風はあなたの呼吸になり、星はあなたの脳のニューロンになり、
太陽は朝の味覚になり、大地はあなたの身体が感じる仕方になる。
<ハート>は<森羅万象>に開かれ、<コスモス>はあなたの魂に駆け込み、
あなたは無数の銀河として生起し、永遠に渦巻くだろう。
世界全体には自立自存する<充満>(フルネス)だけが残され、
<空>には自らによって見つめられる<光輝>だけがある
ーそれは無限の壁に鮮明に描かれた永遠に保存される唯一無二の真実である
:そこにはただそれしかない。指を鳴らしても、他には何もない。


・瞑想と脳波
最後に瞑想と脳波の関係について見ていきましょう。脳波は客観的なデータとしてアルファ波がどれくらい出ているかを、リラックスの度合いとして見るのに適しています。心と脳の相互関係を探る上で、脳波の研究はますます重要になってくるでしょう。ウィルバーは、瞑想における意識状態と脳波の関係に関する注目すべき実験を自ら脳波測定器をつけて行っています。

「アルファ波は、目覚めているが弛緩した意識と関連している。ベータ波は、集中した分析的な思考と関連する。シータ波は、通常は夢の状態でのみ出るが、時に集中した創造性の状態で出ることもある。デルタ波は、通常は夢を見ない深い眠りの状態においてのみ出る。つまり、アルファ波とベータ波は粗大領域(物理的世界)と結び付けられる。シータ波は微細領域と、デルタ波は元因領域と結び付けられる。あるいは、アルファ波とベータ波は自我状態を表示する傾向があり、シータ波は魂の状態、デルタ波は霊の状態を表示する傾向があると言えるかもしれない。たぶんデルタ波は、多くの人々が夢を見ない深い眠りの状態においてのみ体験する、純粋な<観照者>と何らかの関連があるものと思われる。

このビデオは私に計測機を付けるところから始まる。私は通常の目覚めている状態にあり、両側の脳におけるアルファ波とベータ波の活発な活動を見ることができる。しかしまた、相当な量のデルタ波を見ることができる。デルタ波の針は両側の脳ともに最大限を示している。おそらく不断の観照あるいは永続する観照によるものだろう。それから私はある種のニルヴィカルパ・サマーディーあるいは、精神の停止ーに入ることを試みる。4,5秒もたたないうちに、計測機のすべての針が完全にゼロを示す。これは誰であっても、まったくの脳死のようだ。アルファ波、ベータ波、シータ波が出ておらず、しかしまだデルタ波は最大限を示している。

その数分後、私はある種のマントラ観想を始めるー私がずっと続けている本尊瞑想である。それは微細レベルの実践に優れているーはたして、最大限のデルタ波に加えて、相当な量のシータ波が即座に計測機に現れる。通常は夢を見ているときにしか出ないシータ波と、通常は深い眠りにおいてしか出ないデルタ波が、ちゃんと目覚めている被験者から両方とも出ていることは、粗大、微細、そして元因の状態が同時に存在していることを示唆している。それは、少なくとも、注目に値することだ。」

主観的な意識と客観的な脳の関連を示唆するこういった研究は、今後ますます関心の的となるように思います。不確実な内面の瞑想状態が確実な数値として表されるのですから、、かなりの説得力があります。「こうして不確実ではない言葉でみんなに語りかける<スピリット>の不断の光が見出されるのである。」

・瞑想を始めよう
ウィルバーは理論よりか実践を先行させて行うように常に言っています。そして何よりも「瞑想」を行うよう強く薦めています。
「ほんとうのところ、新しいホリスティックな考え方を取り入れる事、ガイア(生態系)を信じること、あるいは統合的な言葉で考えることでさえーそれらがどんなに重要であったとしても、スピリチュアルな変容に関しては最も重要性に低いものである。そうしたことすべてを信じるその誰かを発見すること、そこに神に通じる扉がある。

そして、意識の高次の領域を開くべく、スピリチュアルな実践を選び、変容に取り組んでみましょう。ウィルバーは、リトリートなどのように何日間か静かな場所で集中的に瞑想を行うことも必要であると言っています。しかし、基本的には、スピリチュアルな実践は日常生活の中において行うものであります。生活とは別に実践があるのではなく、生活の基盤こそが霊的修行で成り立つようにするべきなのです。

「真の霊的修行とは、数ある人間活動のなかの一つの活動ではなく、
全人間活動の基盤、その源であり、全人間活動を支えるものである。
それは超越的真実への先行する投機であり、一日二十四時間息づき、
直観され、実践されるものである。
真の自己を直観することは、初原の誓願に従って、
自己の全存在を生きとし生けるものの自己の実現にかけることである。
<いかに多くの存在があろうとも、その解放を誓う。
いかに真実が比類なきものであろうと、その実現を誓う>
あらゆる現在の状況を切りぬけて、無限そのものへといたる実現、奉仕、犠牲、明渡しに対する
深い関わりを感じるのであれば、霊的修行は自然に自らの道となろう。
今生で霊的導師を見出し、この瞬間に光明を得ることを祈りたい。」

今ここから始めよう。

引用

「アートマン・プロジェクト」 「ワン・テイスト」「無境界」

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