苦しみの意義
おそらく苦しみを味わったことがないという人はいないだろう。私たちの現実を冷静に見ると、苦しみが繰り返し起こってくることは避けがたいように思える。ならばこのやっかいな「苦しみ」というものから逃れようとするのではなく、理解し、何か学ぶものはないか、見てみようではないか?なぜなら「苦しみ」は何かしら肯定的な種子を宿しており、私たちの成長にはなくてはならないものだと、賢者たちが示唆しているからだ。
ケン・ウィルバーは、苦しみの意義についてこう指摘しています。
「自己発見の胎動は、人生に満足していないことが意識された瞬間にはじまる。
大半の専門家の意見とは逆に、この人生に対する絶えざる不満は「精神の病」の兆しでも、
社会にうまく適応できないことを示すものでも、人格の崩壊でもない。
人生と存在に対するこの根本的な不満の内には、一般に社会的覆いの重圧の下に埋もれているある特殊な知性、
成長する知性の萌芽が秘められている。
人生の苦しみを実感しはじめている人物は同時に、
より深い現実、より真実に近いリアリティにめざめはじめている。
苦しみは、現実に対する標準的な作り話の自己満足を打ち砕き、ある特殊な意味で私たちをよみがえらせずにはおかないからである。
それまで避け続けてきた仕方で自己と世界を注意深く見つめ、実感し、ふれるようになるのである。
苦しみは最初の恩寵であるといわれてきたが、私はそれは真実だと思う。ある特殊な意味で、苦しみとは歓喜の時であるとさえ言える。創造的な洞察の誕生を記しているからだ。」無境界より
このように「苦しみ」には絶大なエネルギーが含まれており、私たちをいやがおうでも探求の道に引きずり込む力を持っている。この力を生かすには、苦しみに突入し、苦しみを生きることが必要らしい。要するに、今までの窮屈な自己を超えて、広々とした自由を味わいましょうと、促しているのである。
実は苦しみを理解しようとする姿勢をとった時点で、半分は解放されている。なぜなら意識が変わったからだ。後の半分は持続的なワークによって可能となるだろう。
苦しみを生きるようになると、だんだんと自分をおびやかすようなものでなくなり、解決はしなくてももはや気にならなくなる。意識が個人的な苦しみを超えて存在するようになったのだ。こうして私たちだれもが苦悩していることを実感したとき、心の深いところでつながりあい、愛が生まれる。歓喜の時である。
スティーヴン・レヴァインはアメリカにおいて、死にゆく人たちと共に痛みに取り組むエクササイズを始めた人物である。痛みや恐怖を取り除こうとするのではなく、それらを見守ることで様々な気づきを促そうとした。この一連のワークは「めざめて生き、めざめて死ぬ」という本で紹介されている。私はこの内容にとても感動し1ぺージ1ページチェックしながら読んだことを覚えている。
痛みを探究した多くの人が、苦しみの意義を見出したようである。
レヴァインの報告に耳を傾けてみよう。
「痛みに心を開くと、それまで人生を困難にしていたものにも心を開くようになり、怒りや恐怖、つまり生そのものの本質を理解できるようになる、と多くの人が語っている。
不快なものを拒もうとする心の中の対立の冷酷さを理解しはじめると、生が開き始めるのである。
身体が痛みを感じるのと同様、恐れに満ちた心は、それ以上に苦痛を感じているのだ。
彼らは怒りの下にあるものを見つめ、思うようにならない物事に対する不満、阻止され満たされなかった欲望を発見している。
この欲求不満をさらに探究すると、その下に大いなる悲しみがあるのに気づくが、さらに深く手放せば、広やかな愛が見つかる。
これまで自分を束縛していた一切の心の状態を吟味しはじめることは、自分自身との素晴らしい出会いである。
心の状態や身体の感覚すべてのなかに深く入っていき、それを完全に体験するなら、それらはもはや得たいの知れないものではなく、単に、たえず形を変えながらも、常に存在の広大さのなかに漂っている雲として見られるようになる。」
私たちに要求されていることは、たった一つである。生に起こることに心を開くこと。それらが好いものであれ不快なものであれ。結局、善い悪いと判断し受け入れられないと思っているのは、過去の記憶に基づいた思考に過ぎない。私たちのハートが受け入れられない、乗り越えることができないことなどないということを、レヴァインとワークをした人々は確信させてくれる。
「皮肉なことだが、共にワークをした人々のなかでも、もっとも苦痛を抱えた人たちが、自分を恐れや抵抗に縛り付けていたものをもっとも深く探求する傾向があることを、われわれは見てきた。
痛みに苦しんでいるとき、彼らは、自分の人生観や想像力がいかに浅薄だったかを理解する。
そして、以前には見向きもしなかった生の探究に乗り出し、まっすぐに自分たちの境界に向かう。
痛みが、厳しくも愛深い教師の役目を果たすのである。この教師は何度でも彼らに想起させる。
こだわりを超えること
、もっと深く探求すること、
今この瞬間をあるがままにまかせること、
次の瞬間の完全さのなかで何が生じてくるかを観察すること、を」
私たちは生まれてからずっと、痛みや不快なものは避けるように条件付けられてきた。痛みに取り組み始めようとするとき、わたしたちは人生に対する機械的な反応を辞める意思を育てているのである。
レヴァインは、死にゆく人に、そして、私たち全員に向けて、こうアドヴァイスします。
「我々は苦痛を逃れようとし、不快なものを憎むように条件付けられているにもかかわらず、我々の真のワークが自分の苦痛に愛を注ぐことであるという事実は、皮肉なことに思われる。
これまで誰にも教えられたことのない新たな寛大さと許容の態度で苦痛を受け入れること。
苦痛を抑えたり追い払ったりせず、ただ、自分自身への気づきと慈しみのなかで、あるがままに在らせること。
自分のどんな部分も否定せず、愛と優しさで一切の変化に関わること。
これまでほとんどいつも心を閉じることを学んできたために、心を開いて受け入れることがどんなに困難であるかを認めて、急ぐことなく、一歩一歩歩みながら。」
*レヴァインのようなワークを日本で行っているという話は聞いたことはないのですが、何か情報がありましたらお知らせください。死や苦しみを前にして途方にくれるしかない今の日本の社会において、このようなワークは計り知れない恵みを私たちに与えてくれます。将来、死にゆく人とのワークを行えたらと願っています。しかし、その前に自分自身のワークを十分に行っていなければなりませんが。
最後に、私の好きな文学者、カリール・ジブランの詩を紹介しよう。
苦しみ、それは、あなたの理解を覆っている殻が壊れること。
果実の芯が陽に触れるためには、まずその種がこわれねばならないように
あなたも苦しみを知らねばなりません。
あなたの日々の生活に起こるさまざまな奇跡へのおどろき。
それを心に常に生き生きと保てたなら、
苦しみも喜びにおとらず不思議に溢れていることがわかるでしょう。
田畑を過ぎていく季節を、いつも自然に受け止めてきたように、
心の季節をもあなたがたがそのまま受け止められたなら。
苦しみの冬を通しても、
清朗さをもって目をみはっていられたなら
苦しみの多くは自ら選んだもの。
それは、あなたがた自身のなかの、うちなる治療師が、
病んでいる自分を癒そうとして盛った苦い苦い一服。
それゆえに、この治療師を信じなさい。
そしてその薬を沈黙と静穏のうちに飲み干しなさい。
なぜなら、その手がどんなに耐え難く厳しくとも、
「見えない方」の優しい手で導かれているのですから。
そのもたらす杯がどんなにあなたがたの唇を焼こうとも、
「陶工である方」がご自分の聖なる涙でしめらせた土で
つくられているのですから。
ただ見守ることによって奇跡は起こる。
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