感情と取り組む
人生をよりよく生きるために、思考と感情はとても強力な道具となります。明晰な将来像を思い描き方向性を指し示す思考と、ダイナミックに前へ押し進む感情がバランスよく機能していると、人生は活気に満ちてきます。しかし、しばしば思考は散漫になり、感情は恐れに支配され臆病になったり攻撃的になってコントロールできなくなることもあります。本来の「私」が一つ一つの思考や感情に同一化してしまい巻き込まれた状態になると、全体を指揮する存在がいなくなり明晰性が欠け、衝動的な行動に移りやすくなります。主人のいなくなった家のような状態です。
思考と感情を整えるには、まず主人を取り戻すこと、つまり思考と感情から離れて観察することのできる「観照者」を育てることから始めます。思考の「観照者」から感情の「観照者」へと移っていきます。なぜなら、思考を観察することは比較的簡単ですが、感情には力強さがあるため判断や非難をすることなく観察することが難しいのです。また感情はどんなことを考えているかによって強まったり弱まったりするので、思考を穏やかにすることで感情と取り組むスペースが出来あがるのです。
感情は心の一部ですが、より身体に近い層にあるため、身体と思考をつなぐエネルギーという側面としてとらえることもできます。何らかのエネルギー、衝動が湧きあがります。その時そのエネルギーはまだ具体的な感情としては認識されません。その後そのエネルギーを思考が判断すると、特定の感情として認識され方向性を持ち活発になります。思考と感情の関係は、絵具と水に喩えられます。エネルギーと思考が溶け合うと、感情は躍動感のある多彩なものとなるのです。感情をどのように扱うかが、不快で苦しく抑圧的なものにするか、肯定的なものにするかを決めます。
通常私たちは、感情に同一化し状況に対して機械的に反応しているだけなので、感情と取り組むという視点を持ちません。過去の体験から、否定的なものや自分を脅かす感情は自動的に抑圧するか、衝動的に表現してしまうかのどちらかです。なるべく感情を避けようとするため、苦しみも少ないかわりに喜びも少なくなるのです。そして何度でも同じ状況に出くわし、心は新たなものに対して閉じがちになります。この自動反応は、生の醍醐味を縮小させ発展の機会を喪失させているため、結局は深い欲求不満に陥ります。
感情の未解決の問題と取り組み、状況を打開するためには、心を開き感情の痛みを空気にさらす勇気が必要になります。麻酔をかけて感情の痛みを感じないですましてきたものを、麻酔なしで手術をするようなものです。しかし、その痛みも過去の記憶からの恐れであり、事実ではありません。心を開き痛みをただ見守ることにより、否定的な感情につけていた否定的なイメージがはがれ、肯定的な意義が見出されてきます。いかなる感情も徹底的に向き合うことができれば、それはもはや外に現れた問題とはなりえないのです。感情と親しむことにより、自分と感情との関係が透明になり、自分と周りの人との感情的対立も透明になってきます。
感情と親しむことはある種の能力ですから、ワークを実践することにより養われます。ワークショップでは常に「今どんな気分ですか?」と聞かれますが、散漫な思考に注意を行かせず今ここの感情を感じるためのものです。普段でも、感情の動きを操作せず、たどっていくことで、感情の深い層が開示されてきます。
深い層に行けば行くほど傷も大きくなるかもしれませんが、その傷もまた幻想にすぎません。充分に向き合って手放していきましょう。しっかりと体験していかないと未消化のまま残ることになります。2,3回と手放すことに慣れると、どのような傷も、手放せば消えていく幻だということがわかるでしょう。怖がらずに勇気を持って、手を放して見ていくとき、それまで表面的にしか感じられなかった本当の感覚が蘇るでしょう。
感情と取り組む
・自分の情動スタイルを理解する
自分の感情がどのように起こったかに気づき、それが私たちを幸せに導くように創造的に用いるようになれることは、私たちの生涯にわたって必要な基本的な技能なのです。初めに、感情を扱う場合の最も陥りやすいわなを見てみましょう。
(1) 否定すること
否定的な感情(悲しみなど)をなんとなく感じてはいてもそれを否定し、生活の中でどんなことが起こっていようとも、元気ですよ、と言ってそのつもりでいます。感情をしっかりと受けとめて表現することをしないと、多くの精神・身体的な病気と結びついてしまいます。意識的な精神が情動に気づいていなくても、無意識は痛いほどにそれに気づいているのです。
(2) 過度の表現
否定することの反対で、ある情動と完全に一体になってしまうのです。怒 りの感情をもつというよりも、その人は怒りそのものになってしまうのです。コントロールを失ってしまうので危険であり、理性は曇らされ、原始的な衝動が支配されるのです。本人は自動的、無意識的なので後で後悔することが多くなります。
(3) 抑圧すること
感情があることには充分に意識していますが、自分にはそれを表現する権利がないと思いこみそれを抑圧してしまうことです。こうした態度は二重に危険なものです。その情動の苦痛を感じるばかりでなく、その情動に抵抗するというもっとずっと大きな苦痛をつけ加えるのです。
・肯定的・否定的感情に気づく
繰り返し何度も経験する感情(怒り・恐怖・自信・喜び・悲しみ)をどれか一つ選び、それと結びついている二つか三つの記憶を思い出してください。どんなことが起こって、どんなことが言われたかについて。思い出すとどんな感じがするでしょうか?
その感情はその時どのように始末したでしょうか?それを適切に表現してそこから何かを学びましたか?それとも、過度に表現したり、否定したり、抑圧したりしましたか?どうしてそうしたかわかりますか?あなたが大きくなる過程で周りの人はその感情をどのように始末していましたか?
・感情を身体感覚に置き換える
感情の観察者の立場をとってじっくりと眺めてみましょう。自分自身の感情をうまく観察できるようになれば、愛と調和か恐怖と孤立かを意識的に選択することができるようになります。良いか悪いかの判断をするのではなくて、ただ自分の知性を用いて、どうすれば自分自身の感情の状態から最もよく学ぶことができるかが、見分けられるようになるのです。
感情の「観照者」でいると、その感情で混乱することなしに、否定的な状態をそのまま経験することができるのです。それでは次に、その感情は身体のどの部分で感じるでしょうか?感情の本質はエネルギーです。感情を身体の感覚に置き換えてみましょう。硬い・柔らかい・むずむずする・ちくちく痛い・重たいなどの表現で表してみましょう。
・感情を解放する
草原を駆け巡る風。抜けるような青空。
五感を通して感じる刺激や情報そのもの、
気持ちがいいとか熱いとか痛いとかの判断が入る前の状態、
これを感覚と呼ぶ。
「今」に生きている時、感覚の状態にある。
五感を通して入ってくる全ての刺激が、ただ清流のごとく流れている状態。
表面意識に記憶が残らず、たえず「ここ」にいる。
過去と未来が「今ここ」に昇華している状態。
それが感覚の中にいる状態。
感覚に何らかの執着を持った時、感情に変わる。
感覚に何らかの判断を加えた時、
これは気持ちがいいとか、冷たいとか、判断を加えた時、
それはもう一瞬前の過去にしがみついている
感覚自体は、風のように通り過ぎるもの。
感じたものを、気持ちがいいからもっと感じていたいとか、
悲しいから早く忘れたいとか思うとき、 感覚に「情」が加わる
いいものだと肯定的な判断を下すとき、気持ちのよい感情が、
いやなものだと否定的な判断を下すとき、不快な感情が生まれる。
そしてそれに応じた行動や振る舞いがでてくる。
全ての感情は、
過去に体験したと思ったことや(実際の体験とは異なっていることがよくあるが)
感じたことに対する執着
別に「情」は悪いものではない。 ただ、自分がそれを使って遊んでいることに気がつこう。
そうすれば、もっと楽に楽しめる。もっと楽に悲しめる。 全てはゲーム。劇場の中の舞台なのか、
人生というステージの中なのかの違いだけ。
情に対する執着を手放すとき、感覚が流れ始める。
感じると言うことがもっと鮮やかに、もっと純粋に、 体と意識の中を通り抜けて行く。
ちょうど、断食の後の初めてのフルーツを一切れ口にした時のように、
今まで気がつきもしなかった、繊細で粒だった味を堪能する。
感じるということを再認識、再定義する瞬間だ。
五感が五感を超え、全ての輝きが」、 音色も色彩も香りも味わいも触感も、
全てが何十倍にも深みを持って感じられ、吹き抜けて行く。
今までしっかりと握っていた心の中の手をそっと開いて、手放そう
情の渦巻きが光の風に変わるのを感じよう。
感情から感覚へ・・・・感情から感覚へ・・・・
・怒りについて
怒り。それ自体は、不本意なことをしている体を中心に戻すためのエネルギーのゆさぶり 純粋な怒りのエネルギーは、そのまま流してあげれば一分と持たない。 それ以上続くときは、今の怒りの火に過去に押さえこんで表現していない記憶の油を注いでいるとき。
また長引く怒りの下には、別の感情がある。自分で触れるのが怖い感情だ。 孤独感、悲しみ、絶望感、自責の念、無力感など。 時には、幸せな気持ちなど肯定的な感情であったりもする。 その時点で自分が見たくなかったり、対処できなかったり、または見せてはいけないと思いこんでいたりする感情を隠すために怒りでカバーをする。 それらの隠された感情に触れ、直面すれば、怒りは消滅する。 そして、その隠れていた感情を許し統合するとき、健やかで暖かいエネルギーが自分に戻ってくる。
ほとんどの場合、怒りを外に表現する必要はない。 溜めに溜め、喉のところまでいっぱいになっていなければ、 その怒りの下にある感情に向き合えば怒りは消える。 怒りの下が悲しみならば、感じて泣くも良い。 怒りの下が罪悪感なら、それを感じてみよう。 先ず、そこにあるものを感じてみることから始まる。 ないふりしても、なにも始まらない。今までの抑圧のパターンを繰り返すだけ。
もう一つの方法は、ただのエネルギーとして流してあげるやり方。その後にくっついて出てくる、押さえこんでいた過去の記憶も、 エネルギーとして、流し手放してあげればよい。基本的には、全ての感情は体と意識のバランスをとるために出ていくもの。 体と意識を中心に戻すためのもの。
出てきた感情にとらわれるとき、再び意識の中に押しこんでしまう。 全ての感情は過去からのもの。もう過ぎたもの。捕まえずに手放そう。 すると大きなエネルギーとなって自分に戻ってくる。 今度は、体の中で浪費する疲れたエネルギーではなく、 意識的に使えるエネルギーとして
「あなたにやさしい精神世界」 関野直行 より
トップページへ戻る