<愛>の上昇と下降が織り成す宇宙
智慧と慈悲・善と善性・エロスとアガペー
私たちは、叡智の伝統で世界の偉大な霊的伝統が共通に持つ体験的な理解についてみてきました。要約するとこうなります。
「(1)<スピリット・神・仏性>は存在する。(2)<スピリット>は内面に見出される。(3)だが私たちのほとんどはこの内面の<スピリット>を理解していない。なぜなら私たちは罪と分離と二元論の世界、すなわち堕落と幻影の中で生きているからだ。(4)この罪と幻影の中に落ち込んだ状態から逃れる方法、解放への道が存在する。(5)この道を最後までたどるなら、その結果、再生あるいは悟り、内なる<スピリット>の直接体験、至高の自由に至り、それらは、(6)苦しみと罪の終わりを示すものであり、またそれによって、(7)生きとし生けるものへの慈悲に基づく社会的行動へと帰着する。」
霊的伝統が示す究極の真理あるいは真の自己である<スピリット・神・仏性>を見出すには、内面を見つめ、偽りの自己や幻影としての世界を追い払うことがまず求められることでした。そして「解放への道」を長い期間にわたって実践してはじめて直接の体験、悟りが得られるのだというものでした。このように霊的修行はある一定の期間、現実の世界から遠ざかり瞑想やリトリートを行うということが試されてきました。こういった面を見て、霊的修行は現実の世界からの逃避であり退行的なものであると批判されてきました。この見方は合理的な自我を重心におく、現在の社会では常識的な見方かもしれません。
しかし、霊的伝統はある側面だけを見ればそうですが、実際は社会に参加し、この世界を愛を持って抱擁するというのが事実であるということが、このコンテンツで表現したいことです。どんな技術を学ぶのでもある一定期間は、世間を退いてその事だけに集中しなくてはならないものです。そしてその技術が身につけば、社会に出てそれを生かすのです。それと同様に霊的修行も世間を退く場合もありますが、基本的にはこの世界の真実を見出していくものであり、現実的な行動が伴うものです。従って、「永遠の哲学における7つの真理」の最後の真理、「生きとし生けるものへの慈悲に基づく社会的行動へと帰着する」が、叡智の伝統が常に目指していることであることを押さえておくことが重要であると思います。
・悟りの二つの意味
「自己」から「自己」への道の意識の発達段階で「霊」の段階を、元因段階と非二元段階に分けました。元因段階は、意識の頂点でありこの世界からの完全な超越です。またすべてがそこから生まれてくる源泉でもあります。要するに元因的な意識はこの世界には絶対に現れない無形の意識ということです。非二元段階は、究極の段階であり意識ですが、これは特定の段階というより、すべての段階の基底であり、すべてに浸透しているものであるということです。非二元的意識はどんなものからも分離してはいません。元因的意識が徹底的にこの世界からの超越を希求するのに代えて、非二元的意識は徹底的にこの世界の中でこの世界を抱擁しようとするのです。
このように霊的伝統が言う悟りには、微妙に異なった二つの意味があるのです。そして当然非二元的意識を目指すには、元因的意識を通過しなくてはならないので、元因的意識の探究において(しばしばリトリートという形で完全に現実的社会をシャットアウトし修行を行う、伝統的には3年間)、霊的伝統は現実逃避的であるという誤解が生まれのです。そしてそれぞれの霊的伝統において、元因段階を主に目指した伝統と、非二元段階を目指した伝統があることを理解することが、この誤解を解くことになると思います。
「<悟り・空>の二つのやや異なった意味に対応して、こうした悟った状態に関してやや異なった学派があります。
最初の学派は、そのパラダイムとして元因的または非顕現の没入状態(ニルヴィカルパ、ニロード)を採っています。それは非常に顕著な、非常に独立した、非常に識別可能な状態です。従ってもしあなたが悟りをそうした休止状態と同一視するとすれば、非常にはっきり、ある人が<大悟して>いるかいないかを言うことができます。
一般に、テーラヴァーダ(上座部)仏教およびサーンキャ・ヨーガ学派におけるように、あなたがこの非顕現の没入の状態に入ればいつでも、それはぐずついている無知の苦しみと源を焼き払います。あなたがこの状態に入リ切るたびに、そうした苦しみはいっそう焼き払われていくのです。そしてある回数ーしばしば四回ーとタイプのこうした境地に入ると、あなたは焼くべきものすべてを焼き払い、従ってこの状態に意のままに入り、そこに永久に留まることができるようになります。あなたは涅槃に永久に入ることができ、そして輪廻はあなたには起こらなくなります。<形>の全世界が起こらなくなるのです。」
この元因学派は、この世からの消滅を求め、その絶対的な平和の中に留まろうとするのです。元因的修行は欠かせないものですが、それを究極的な達成としてしまうと様々な誤解や批判が生じるように思います。しかし、非二元学派は、そこがゴールではありません。
「非二元学派はしきりに元因的状態を用い、しきりにマスターするでしょう。が、より重要なことは、これらの学派ーヴェーダーンタ、大乗、密教などーは、独立した気づきの状態ではなく、すべての状態の基底または<空>の条件である非二元的真如(あるがまま)の状態を指摘することに関心があります。ですから彼らは<形>(輪廻)の世界から絶縁された<空>を見出すことにあまり関心がなく、むしろすべての<形>を、<形>が生じ続けていく間にすら包含している<空>に関心があるのです。」
ポイントは、元因段階は、覚醒体験や見性体験など、はっきりとした目安がありますが、非二元段階は「常にあるスピリット」を見出すことに重きをおいているということです。
「そして<形>(世界)は生起し続けるので、けっして「もう私は完全に悟ったぞ」と言えるような終点にいることはありえないのです。非二元学派では、<悟り>は新しい<形>が生起していく前進の過程であり、あなたは<空>の<形>としてのそれに関係するのです。あなたは、生起していくこうした<形>すべてと一つなのです。そしてそういう意味では、あなたは「悟っている」のですが、しかし、他の意味では、この悟りは前進していくのです。なぜなら、新しい<形>が常に生じているからです。あなたは決して、さらなる発達のない不連続の状態にはないのです。あなたは常に<形>の世界について新しいことを学んでいき、それゆえあなたの全体としての状態は常にそれ自体を進化させていくのです。そのように覚醒体験は、絶えず生じてくる<形>の新しい波に乗っていく果てしないプロセスの始まりにすぎないのです。」
非二元的意識はある意味ゴールですが、それは新たな始まりでもあるということなのです。世界は消滅し無に返るだけでなく、非二元的意識からまた新たな創造が次々と発生してくるのです。そして非二元的意識はそれら創造された世界と一つなので、その世界として生きるのです。インドでは、「リーラ(神の戯れ)」といいますが、覚者から見るとこの世界は、スピリットが隅々にまでいきわたり充満している姿に映るのだといいます。そして、非二元学派が発展してくると、元因学派がそこから超越しようとしてきた輪廻(サンサーラ)や煩悩、情動に積極的に入っていき、それらを真理と同じものとして祝福しようとします。一般にこういった指向性はタントラと呼ばれています。
「タントラ学派は、輪廻を恐れず、それに乗り続けるのです。汚れた状態を放棄せず、熱情を持ってそこに入り、それをもてあそび、そして誇張し、またそれがより高いかまたは低いかどうか少しも気にしません。なぜならそこにはただ神だけがあるからです。言い換えれば、すべての体験には同じ<一つの味>(ワン・テイスト)があります。どれか一つの体験が<一つの味>により近かったり、<一つの味>からより遠かったりすることはありません。神に近づくための方法を操作することはできないのです。なぜなら神だけがあるからですーこれが非二元学派の根本的秘密です。
同時にこうしたすべてはある非常に強固な倫理的枠組み内で起こり、あなたはただ「ダルマ遊び」に興じて、それを非二元的と呼ぶことは許されないのです。事実、これらの学派のほとんどでは、トランスパーソナル的発達の最初の三段階(心霊、微細、元因)をマスターするまでは、第四の非二元的状態について話すことすら許されないでしょう。<狂気の智慧>は、非常に厳格に倫理的な雰囲気の中で起こるのです。が、重要なポイントは、非二元学派では、あなたの訓練のすべての基礎である一つの誓い、非常に神聖な誓いを立てるのですが、その誓いとはこうです。
私は休止の中に消え去りません
涅槃の中に隠れません
ニルヴィカルパの中に引っ込むことによって世界を放棄することはしません
むしろあなたは、輪廻とは<空>のたんなる顕現だということを、その押し寄せる波をかぶっているすべての存在が見ることができるようになるまで、その輪廻の寄せ波に乗ることを誓うのです。あなたの誓いは、できるだけ速やかに休止を通過し、非二元性に入り、それによってすべての存在が、まさにそれらの生まれた実存のただなかで<不生のもの>に気づくのを助けることができるようになることなのです。」
つまり、すべては神で、自我は神の顕現なのだから、自我のままでいいということではないのです。悟りはすでにあるのだから、修行はしなくていいとか、何をしようが勝手だというわけではないのです。このような誤解や危険が伴うため、永遠の哲学の知識は秘密に保たれてきたのです。20世紀に入りこのような知識が誰にも手に入るようになってから、誤解や危険が増えてきているようです。しかし、上記のような理解があれば、道を選択する上での過ちを少なくしてくれるでしょう。非二元の知識は、すべての存在のために解放を得ると約束したものに与えられるもののようです。それは認識の発達だけでなく、道徳の発達も重要な要素であると言うことです。
・非二元的霊性の三つのステップ
私たちは元因的悟りではなく、非二元的進化する悟りに基盤を置くべきであるということが確認できたことと思います。非二元学派の実践的な指示はこうです。まず自我やあらゆる顕現から脱同一化し、無形の意識を見出しなさい。そしてその後に、自我やあらゆる顕現を無形の意識として認識し、慈悲を持ってこの世界に働きかけなさい、ということです。すべてから超越し、すべての中に入るのです。超越と内在。こうして非二元的霊性が共通に持つ三つのステップが明らかとなるのです。
それを20世紀における最高の非二元的賢者、ラマナ・マハリシはこういいます。
世界は幻想である。
ブラフマンのみがリアルである。
世界はブラフマンである。
最初の一行目が粗大、微細領域から元因的領域への飛躍です。元因段階へはすべての幻想性を見抜き、それから脱同一化することで到達します。
二行目は、元因段階の徹底的な体験的理解でしょう。意識には、対象つまり世界や苦しみは一切現れて来ず、ひたすら元因的意識(神、仏性)に浸っている状態です。
三行目は、元因的没入を突破し、非二元的あるがままの意識への突然の転回と言えるでしょう。幻想として理解していた世界がそのままで真理の顕現だと言うことが明らかになるのです。三つ目のステップがあるかどうかが、非二元と元因学派を分けるものです。
ウィルバーは「ラマナ・マハリシとの対話」の序文で三つのステップについてこのように説明しています。
「(1)世界は幻想である。それはあなたがどんな対象でもないことを意味するー見ることができるものは、結局のところリアル(現実)ではない。あなたはこれでもなく、あれでもない。(ネーティネーティ)どんな状況下でも、あなたは自分の救済を有限の、一時的な、通過的な、錯覚的な、苦しみを高め、苦悶を引き起こすようなものに基づかせるべきではない。
(2)ブラフマンだけがリアルである。<自己>だけがリアルである。−純粋な<観照者>、無時間の<未生>、無形の<見る者>、輝ける<空>−がリアルであり、それらすべてがリアルである。それはあなたの状態、あなたの本性、あなたの本質、あなたの現在そして未来、あなたの欲望そして運命であり、けれどもそれは純粋な<存在>、単独の<独り在ること>として、いつも常に存在している。
(3)世界はブラフマンである。<空>と<形>は二つではない。顕現している世界が錯覚であると認識した後に、そして<ブラフマン>だけがリアルであることを認識した後に、<絶対者>と万物が二つではなく、非二元であることを見る。また、<見る者>と見られる者すべてが二つではなく、<ブラフマン>と世界が二つではないことを見るーそれらが本当に意味することは、あそこの鳥の泣き声なのだ!<形>の世界全体は、あなた自身の現在の<無形の自覚>の中にある。あなたは一口で太平洋を飲むことができる。なぜなら、世界全体は文字通り、あなたの純粋な<自己>、常に存在する偉大な<私ー性>の中に存在しているからだ。
最後に、最も重要な事だが、ラマナ・マハリシは純粋な<自己>−それゆえ、偉大な<救済>−が、あなたの足や肺で到達できる範囲内でしか、達成できないことを教えてくれた。あなたはすでに大空に気づいている。あなたはすでにあなたの周囲の音を聞いている。あなたはすでにこの世界を観照している。悟りを開いた心あるいは純粋な<自己>は、今この瞬間に100%存在しているー99%ではなく、100%である。<自己>が存在する何かになるならばーあなたの覚醒が時間の中に起ころうとするならばー、それは単なる別の対象、別の有限の通過的一時的な状態になってしまう。<自己>に到達することはないー<自己>はこの今この文章を読んでいる。<自己>を探すことはないーそれは今この瞬間にあなたの目から外を見ている。あなたは単純に、絶対に、失ったことのないものを達成することはない。あなたが何かを達成するならば、ラマナ・マハリシは言うだろう。それはとてもすばらしい。しかし、それは<自己>ではないと。」
非二元学派はどこまでも「今この瞬間の気づき」を重要視するので、たまたま現在行っている活動以外に<自己>を求めるようなことはしません。ましてこの世界以外のところに真理を探すこともしません。
この三つのステップは私の理解では、発達のプロセスと一緒です。幼児は、物質的な自己に埋没していた状態から、物質的自己は幻想であると見破り、自我だけが実際の自己であると見ます。そしてその後に、物質的な部分も自己として含み込むのです。同じように、発達の段階ごとにそのような三つのステップが行われているのです。そして最終的にすべてが幻想であると見抜き、<形なきもの>こそ実際の自己であると見ます。そしてその後にすべては<形なきもの>の姿であったことを見るのです。
・スピリットの二つの運動
「超越し内在する」を繰り返しながら発達し、最後にすべてを超越しすべてを含むところまで行きます。そして非二元の伝統が主張するところでは、この「超越し内在」するのは、どちらも最初から最後までスピリットの動きであるといいます。そこには神しかいないからです。つまりスピリットには私たちの目(無知の目)から見ると正反対の二つの動き、超越と内在があるのです。これら二つが非二元的覚醒においては一つに結ばれているのです。この動きをウィルバーは、<上昇>(超越)と<下降>(内在)と呼びます。<存在>はダイナミックに躍動しているのです。
「スピリットの最初の運動は、<一者>(元因的自己)の、多者の世界に対する下降である。それは実際に多者の世界を創造し、多者を祝福し、善なるものをあまねきものに及ぼす運動であり、この世界におけるスピリットの内在である。もう一つは、多者の、<一者>への帰還ないし上昇である。善なるものを思いだし、ふたたび集めていくプロセスである。それはスピリットのこの世界からの超越である。」
私たちには矛盾する二つの動きが非二元的な知覚においては結び合わされているということです。この非二元的覚醒がないとこの二つは統合されず分裂してしまい、そこからあらゆる二元論、相反する人生の意味や目的が生まれてくるのです。この二つの相反する運動は根本的な二元論であり、他の二元論はこの上昇と下降の二元論の付随的なものであります。よってこの上昇と下降を結ぶことが二元的な世界を克服し解放を得ることになるのです。ウィルバーは、西洋においてこの二つの運動を初めて記述したのがプラトンであり、その後の新プラトン学派において、この非二元的伝統は保たれてきたと見ています。プラトンといえば、「プラトニック」「イデア」「洞窟の比喩」が有名なように、この世からの離脱ばかりを説いたように思い浮かべます。しかし、これから見るようにプラトンはあきらかに非二元的霊性の三つのステップをたどったようです。
・プラトンの上昇の道ー「共和国」「饗宴」
「感覚に直接的に訴える物質的な領域との戯れにふける魂が、より高位のイデア(形相)の心的領域を通過して、永遠の、語られることのない一者<スピリット・神・仏性>の霊的領域へ上昇していく旅を描き出している。この上昇においてプラトンは、私たちが進化と呼んでいる、あの物質から身体、心、魂、霊、そして最終的には、時間の世界における魂の旅の頂上でもあり目的地でもある、突然の啓示/光明の中に開示される存在を超えた<善>(元因的意識)に到達する運動を語っているように思われる。」
この元因的な<善>はすべての顕現を超越しています。
プラトンはいいます。
「善は存在を超越する。魂全体が、生成するものから離れ、あることそのものの黙想に耐えられるように向きかえられなければならない。」「共和国」
自我と世界から脱同一化し、徹底的に内面を見つめる、元因段階を目指した実践でしょう。そして言葉にできない<悟り>を得るのです。東洋の伝統と同じように、それは同じ志を持つ人の実践の場で、師から弟子へと直接に受け継がれていくもののようです。
「しかしこの点は確言できるが、現在も、そして未来の哲学者も今私が関わっている事柄(一者に関する神秘的知識)に関していくら知ったふりをしようと、私の考えではこの主題についていかなる理解を持つことも不可能である。それは学問ほかの分野のように言葉にすることができないからです。共同生活(黙想のコミュニティ)に長く参加し、この探究に献身して初めて真理が魂の上にひらめくのだ。ちょうど飛び散った火花が炎を燃え上がらせるように。このことに関する私の論考は存在しないし、未来も書かれることはないであろう。」「第七の書簡」
プラトンの上昇の道は、非二元の霊性の三つのステップにおける1と2、「世界は幻影である。ブラフマンのみがリアルである。」に完全に対応しています。プラトン風に言えば、多者を後にし、一者を見つけよ、ということになります。
「プラトンが描くこの上昇は、存在を超えた神秘的・超越的意識に関わっている。それはすべての顕現、すべての属性を超越しており、それに比べれば、顕現世界は影、幻影である。確かにプラトンは、全顕現世界を、影の洞窟の彼方にある<リアリティ>と<光>の青ざめたイメージと見なしていた。洞窟の住人たちは、うつろいやすい感覚的印象と揺れ動く心的な考えに支配されて、洞窟の中につながれているのである。
すべての<真実>、すべての<善性>、すべての<美>は、永遠の、語られることのない一者への黙想による没入によってのみ、最終的に、そして十全に見つけることができる。ほかの解放では不可能であり、他の解放では望むことができない、そしてこの突然の啓示がなければ、プラトンが言うには、うつろいやすく、有限で、時間に支配された世界の苦悩と混乱のなかにさまようことになる。顕現された領域において、どんなに美や歓喜、驚異を見つけたとしても、それは超越的な<美>の単なる影である。超越的な<美>は直接的な黙想的経験に対して開示され、同じ黙想的な眼を持つ人々によって確認される。」
この上昇の道だけを取り上げてしまうと、この世界、現実を無視し嫌悪していると誤解されかねません。しかし、プラトンは非二元的賢者が全員たどるように、上昇の道を登り終えた後、180度向きを変え、この世界を抱擁しに戻ってきます。
・プラトンの下降の道ーティマイオス
アーサー・ラブジョイは「存在の大いなる連鎖」において、プラトンをこう評しています。
「プラトンの哲学は、私たちの言う他界への方向を目指して、その頂点に達するや否や、一転、方向を変える。通常の思考のすべての範疇を離れて、それ自体に何も外的な要素が必要でなくなった(元因的な知覚)純粋な完全性の始源に到達すると、プラトンは逆に、この超越的で絶対の存在が、この世界の必要な基底であることを発見する。そして、およそ考えられるあらゆる種類の有限の、時間的な、不完全な、擬似実在的な存在の必要性と価値とを主張するところまで進む。
感覚の世界を、実体の持たない影が形作る炎のきらめきであると描くことは、もはや適切ではなくなってくる。<太陽>(元因的一者)は、洞窟と炎、揺らめく影とそれを見つめる者を創ったばかりではない。それらを創造しながらも同時に、一者はその本来の性質とおなじほどの本質的なその属性を顕現しているのだ。そうした属性は、どんな地上の眼もしっかりと直視できないほど輝かしい一者の輝きとおなじほど、いやそれよりもさらに優れたものであった。影は太陽にとって必要であると同時に、太陽もまた陰には必要なのだ。影の存在は、一者の完全性の完成そのものなのである。」
この世界を嫌悪するどころか、この世界こそスピリットの目的が果たされる場なのです。そして影の存在である私たちは、この豊穣な世界を祝福し、抱擁する原因となるのです。私たちが神を必要としているのと同じように、神も私たちを必要としているのです。私たちは真理が実現化された完全性そのものなのです。しかし、それが理解されるのも、この世界を越えてからということですが。
「一者への帰還としての上昇の道を確立した後に、プラトンは、純粋に創造に中心をおいた霊性、多者が形作る輝かしい豊穣な世界を抱擁する光に満ちた霊性を樹立する。単に上昇の終点だけの一者は、完全な完成にはほど遠い。それはそこからすべての顕現が流れ出し、万物へ流入する究極の<一者>に比べれば、明らかに下位にある。プラトンにとって創造できない絶対とは、絶対ではありえない。従って真の完全性とは、その超越した豊穣性から一つの例外もなく万物が流出し、流入することを意味している。
ティマイオスで、プラトンは一者の創造的な超豊穣性とその流出の過程をたどっている。それは一者から、創造する神(元因領域)が生まれ、元型的な形相(微細領域)が生まれ、人間へ(心)、そして他の生物(身体)へ、さらに物質の世界へと流出していく過程である。従って新プラトン主義者はこう述べている。霊から魂、心、身体、物質は、いずれも先行する段階からの流出であり、一者という源泉ないし基底は、いずれの段階にも、その段階に応じてその姿を映し出しているのだ、と。全宇宙は、プラトンにとっては巨大な有機体であって、すべての部分は互いに、そして永遠の<基底>へと織り込まれているのである。全顕現世界をプラトンは<目に見える、感じることのできる神>と呼んでいる。プラトンの<自己充足的な完全性>は、また同時に、<自己流出的な豊穣性>なのである。」
プラトンの語るスピリットの流出は、私たちの心や身体にも流れており、一者の身振りに他ならないということです。(リーラ、神の戯れ)。何もしない源泉ではなく、ダイナミックな創造を起こす源泉なのです。つまりどの段階の存在もないがしろにできないのです。
「プラトンは創造の中のスピリット(あるいは多者の中の一者)こそ、いまだ顕現されざるスピリットそれ自体より、はるかに完全で、十全で、完結したものであるということを疑う余地なく明らかにしている。彼は暗黙の内に、時には明白に、単なる顕現されていないスピリット(元因)は顕現に対してある緊張ないし羨望の状態にある、と述べている。この緊張は、顕現すべて,可能世界の可能な類型のすべてが、スピリットの輝きであると見なされたときのみ、克服される。従ってプラトンの最終的な立場は、スピリットとはこの世界の外にあるときよりも、この世界のなかにあるときのほうが完璧である、というものである。
こうしてプラトンの全体的な立場を、いかなる非二元的伝統にも当てはまることのできる言葉で要約できる。
多者を後にし、一者を見つけよ。一者を見つけたなら、多者を一者として抱擁せよ。
もっと簡単に言うこともできる。
一者に帰還せよ、多者を抱擁せよ。
多者を喜びに満ちて、愛に満ちて、無条件に抱擁することこそ一者の完全性の結実であり、完成である。それが欠けては、一者といえども、二元的で、分裂して、羨望に満ちたものになってしまう。
この統合は大円(グレート・サークル)とも考えることができる。下降の道、顕現の道、創造の道は、円の頂点から底へと向かっている。上昇ないし帰還の道は、底から頂点へ向かっている。どちらの道も同じ次元をたどっていく弧である。上昇することは下降することなのである。大事なことは、上昇と下降のエネルギーが描く円は、けっして切り離されてはならない、ということである。この世とあの世は、一つの、永遠に流れていく、喜びに満ち溢れた抱擁のなかに結ばれているのである。」
・智慧と慈悲
プラトンから新プラトン派に至る伝統では、元因的な一者の事を「善」と呼び、一者がこの世界を抱擁することを「善性」と呼んでいます。すなわち上昇の道は「善」への道であり、下降の道は「善性」への道です。東洋においてはこの上昇の道は、「智慧」と呼ばれ、下降の道は「慈悲」と呼ばれています。スピリットの二つの運動を統合する非二元的な伝統が現れるところではどこでも同じテーマが語られるのです。
「タントラから禅まで、新プラトン派からスーフィーまで、(ヒンドゥー教)のバクティ派から華厳まで、何千もの異なった説き方、何百も異なった文脈において、本質的には同じ言葉が非二元的な魂から鳴り響く。
一者へ帰還し、一者を抱擁する多者は善である。
そしてそれは智慧と呼ばれる。
多者へ帰還し、多者を抱擁する一者は善性である。
そしてそれは慈悲と呼ばれる。
智慧は、多者は一者であると知る。
智慧は、変転する外見とうつろいゆく形態を通して万物の基底のない<基底>を見る。
智慧は、影を通して、時間と形のない<光>を見る。
タントラでは、それは<存在>が自ら放つ光明である。
禅では、智慧(般若)は、色(形態)はそのまま<空>であることを見る。
色即是空(色は空なり)
智慧は、この世界は幻想であり、ブラフマンのみがリアルであると知る。
慈悲は、一者が多者であると知る。
慈悲は、一者はすべての存在に平等に現れていると見る。
慈悲は、それぞれの存在は全くあるがままで、スピリットの顕現であると見る。
禅では、慈悲は、<空>とは色(形態)に他ならないと見る。
空即是色(空は色なり)
慈悲は、ブラフマンが世界であることを見る。
上昇と下降の道の統合とは、智慧と慈悲の結合である。
私たちが一者に対して抱く愛は、多者に対しても同じようにさしのべられる。
なぜなら、その二つは、究極的にはおなじものだからであり、
かくして
愛は知覚のあらゆる瞬間において
智慧と慈悲とを結び付けているのである。」
・非二元的霊性の完成者ープロティノスとナーガールジュナ
人類の歴史的な時間を通じては、紀元前6世紀ぐらいの仏陀や老子、ソクラテス、ウパニシャッドの時代に最初の非二元的な覚醒が開かれました。しかし、まだ全体的な霊性の基調としては元因的一者を求める要素が強かったようです。そして、2世紀頃から霊的伝統は、非二元的覚醒を基盤にした動きが中心になってきます。この非二元的霊性を完成に導いたのが、西洋ではプロティノス、東洋ではナーガールジュナという、二人の偉大な師でした。以後の霊性は、この二人の教えから流れてきたといってもいいくらい、計り知れない影響を及ぼしました。
西洋の霊的伝統は、プラトンから、無傷のまま、そのもっとも有名な代表者、プロティノス(205−270)に受け継がれました。プロティノスも非二元的霊性の三つのステップをたどります。
「魂はいかなる外的なもの(対象)にも乱されることはない。最初はそのなかに埋没することを拒否することで、次には、それらを全く見なくなることで(非顕現の没入)外的なものを無視してしまう。それは自分を知ることすらない。完全に一者として留まっているのだ。いかなる対象も、霊的な<美>さえも、観照者の前を通りすぎる。しかし、<観照者>自体は存在を超えて覚醒している。この眠ることのない光は、いつも、つねに私たちが眠っているときでさえ現前している。この光は、未来に向けてではなく、つねに現在、というよりもつねに現前する永遠の<今>を照らしている。それを客体として見ることはできない。そこにはいかなる二元性もないからだ。これは対象ではなく、いわば大気のようなものである。
それは生命と神の泉、存在の源泉、善の原因、魂の根源である。これらは一者から流出するが、そのため<一者>が減少することはない。スピリットは万物を発生させるだけではない。スピリットが万物なのである。(非二元の三ステップ目)」
プロティノスは想起と黙想の実践に加え、カルマ・ヨーガに似たタイプの実践を行い、非二元の覚醒をしばしば経験しました。この超越的な認識は、人格の完成にまで浸透していたようです。弟子のポルピュリオスが述べています。
「師は何事においても簡素であった。一切の厳格な苦行などなしに、師はその穏やかで愛情に満ち溢れた性質で、すべての人の心をつかんだ。」
「プロティノスの一者とは、二を構成する単位としての一ではない。世界全体を一とし、分割されていないものと考えると、ポイントを見失う。というのもそれは単に概念であり、それ自体、二元的な概念だからである。本当の一者とはつねに現前する覚醒であり、それは一者という概念を含むいかなる概念も目撃している。それ自体はいかなるイメージ、思考、対象でもなくつねに現前する覚醒とともに、すべてを、平等に完全に抱擁しているのである。こうしてこのそれ自体は無である<一者>は、そこからすべてが立ちあがる基底である。覚醒は、その前を何が進行していこうと覚醒であって、それが目撃するいかなる対象によっても減少させられることはない。しかしまたけっして対象から離れることもない。鏡に映るイメージが鏡から離れることのないように。こうしてプロティノスはやすやすと非二元の跳躍をやってのける。」
ウィルバーはプロティノスの西洋思想における深甚な影響をこのように評しています。
「西洋においては、初期キリスト教はその神話的な文脈から引き上げられて、黙想的な修練へと入っていった。それは、プロティノスから直接、深く影響を受けたアウグスティヌスと聖ディオニシウスの努力による。そしてそこからプロティノスの影響はほとんどすべてのキリスト教神秘主義、アヴィラの聖テレサ、十字架の聖ヨハネ、ブレイク、ベーメ、そしてエックハルトらに及んだ。それは、クザーヌスとブルーノを通して中世をルネッサンスに押し上げるのを助けた。さらにノヴァーリスとシェリングに、従って全ロマン派ー観念論派の運動(ショーペンハウエル、ニーチェ、エマソン、ウィリアム・ジェームス)に影響を与えた。新プラトン主義は、同じようにユダヤ神秘主義(カバラとハシディズム)、イスラム神秘主義(スーフィー)に主要な影響を与えた。」
ベンはこのように主張しています。
「他のいかなる思想家も、かくも長きにわたって、かくも直接的、包括的な影響を及ぼした革命を達成した人物はいない。」
しかし、ウィルバーは、それはナーガールジュナ(龍樹)を除いてであるといいます。ナーガールジュナ(龍樹)は、<空>の概念を大成させ、大乗仏教を切り開いた人物です。
「初期仏教は純粋な元因段階の上昇の試みであった。多者から逃れよ。顕現されていないものだけを見つめよ。輪廻、幻の世界は涅槃のうちに超越される。サンサーラとニルヴァーナはまっすぐに対立している。これに対してナーガールジュナのマハーヤーナ(大乗)の革命は、輪廻と涅槃を二つではないと見る点で、徹底して非二元(不二)である。空性が、他の領域から離れた、あるいは切り離された別の領域ではなく、むしろすべての領域の<真如>ないし<空性>であるため、涅槃は、現象世界から離れて求められるべきではなく、また求めることもできない。
チベット仏教、中国仏教(中国禅、天台)、日本仏教(禅宗、真宗、華厳)は、部分的にしろ全体的にしろ、直接、その影響を龍樹から受けている。彼の弁証法は、ヴェーダーンタ哲学の偉大な聖者シャンカラに多大な影響を与えた。そしてシャンカラの不二のヴェーダーンタ哲学は後続するすべてのインド哲学/宗教を一新したのだった。(あまりに多くの点で、龍樹の中観哲学と同じであり、仏教がほとんど途絶えたとき、その本質がヒンドゥー教のなかにそのまま再吸収されたとさえ言えるのである。)」
T・R・Vムルティは「仏教の中心哲学」において、龍樹の空観を解説しています。
「空と慈悲は、菩提心(覚醒した心)の二つの原則的な特徴である。空性は、般若、智慧ないし直覚であり、絶対と不二である。慈悲は、<空性>に現象界の具体的な表現を与える慈悲の原則である。慈愛と慈悲の、自由な現象化の行為である(下降)。前者が、超越的で、絶対の方向に向いているなら、後者は完全に内在的で、現象界を見ている。空性は、普遍的なリアリティで、いかなる規定も受けず、いかなる属性も付与されえない。
それは善と悪、愛と憎しみ、美徳と悪徳の二元性を超えたものである。慈悲は、善性、愛、純粋な行為である。仏(覚者)と菩提心とは、一方の足を智慧(絶対)に、一方の足を慈悲(現象)におろしている両性具有的な存在である。善と世界のすべての善性の源泉である。現象化の側面としての慈悲とともに、無形の<絶対>(空)が、それ自体として具体世界に顕現する。しかし形態は尽きることなく、また絶対を転落させることもない。形態を通じて、個者は上昇し、普遍的な現実のなかに、その完成・成就を見るのである。」
ナーガールジュナ率いる大乗仏教の勃興は、空の哲学を基盤にしていますが、もっと重要なことは、原始仏教が自分独りだけの解脱を求めたのに対して、自分が解脱するのはすべての存在を解脱へ導くためだという動機にあります。菩薩として知られる大乗仏教の修行者は、すべての存在が悟りを得るまで、この世界に留まり慈悲を持って働こうとするのです。そしてこの慈悲こそ仏性そのものであることを見るのです。
ウィルバーは龍樹が果たした、仏教及び東洋の霊性の発展を跡付けています。
「こうして、サーンキャ、ヨーガ、およびアビダルマの体系のような、純粋に上昇的な傾向(輪廻の完全な止滅として涅槃を捉える)が、様々な非二元的体系(唯識、ヴェーダーンタ、タントラ)に道を譲ったのである。非二元的体系は、何らかの形で、空性とは形態に他ならず、形態とは、空性に他ならない、と主張している。
こうした発展の中で、上昇(苦行)の道、浄化と克己の道(聖性に対して不浄なものは止滅の中で、断罪される)は、変容の道(不浄なものは智慧の種子と見なされる。涅槃と輪廻は、究極的には不二であるから)に道を譲る。上昇的な智慧は、下降的な慈悲を持っている。従って、いわゆる不浄なものは、すなわちあらゆる顕現された領域は、<絶対>からの逸脱ではなく、その表現と見なされる。これが上昇と下降、空性と形態、智慧と慈悲の統合である。さらに、それは自己解放の道へ譲る。そこでは、不浄なるものは、すでに、そのままで、その生起のままに自己解放されている、と見なされる。なぜなら、それらの基本的な性質は、つねに、すでに、原初的な純粋性だからである。(つねに、すでに達成されている上昇と下降の統合)従って、あらゆる形態は、等しく思いやりと慈悲と敬意のなかに置かれる。こうしたことは、ある意味で、すべて龍樹によって開かれたのである。」
・エロスとアガペーのコスモス
智慧と慈悲、善と善性、スピリットの上昇と下降の運動を見てきました。この上昇の側面をソクラテスは「エロス」という言葉で表現しました。
「切り放されたもの(ディスメンバー)は、つなぎ合わせなければならない(リ・メンバー)。つなぎ合わせること(=想起)、もう一度集めること(リ・コレクト=追憶)、再度結び合わせることが(リ・ユナイト)、上昇の道である。この道はソクラテスによれば、エロス、<愛>によって動かされる。それはより大きな結合を求める動きである。より高い、より広いアイデンティティを求める動きである。エロスの働きによって、とソクラテスは言う。恋人は自分から離れ、愛するものとのより大きな結合へ導かれる。エロスの対象は、身体から心、魂へと向かい、最後の統合が結び合わされるまで続く。エロスとは、ソクラテス(プラトン)が使う意味では、本質的に自己超越と同じである。それは上昇、発達、進化の原動力にほかならない。他者をより広く抱擁する、より高次のアイデンティティを見出すことである。その反対は退行、溶解であって、分裂した、バラバラな状態への下降である。」
プロティノスは、下降の道、善性の道を、キリスト教用語で言う「アガペー」に似た意味の「愛」としても表現しました。高位から低位への思いやりとして現れる愛です。プロティノスはこの下降する愛を、低位から高位に手を差し伸ばす上昇する愛と結びつけ、宇宙は愛による広大な円によって形作られるとしました。
「上昇の道でもっとも重要なことは、プロティノスによれば、下位は抱擁され充満されなければならない。そのために下降ないし抱擁は、すべてがうまくいけば、現在のレベルにいたる上昇と発達のすべての段階で起こりうる。すべての段階においてエロスないし超越的な智慧(低位から高位への希求)は、アガペーないし慈悲(下位の抱擁)と調和がとれていなければならない。
<愛>の上昇と下降のパターンが織り成す多次元的なコスモスという考え方は、新プラトン主義において支配的なものとなった。
そして西欧における以後の思想の流れに深遠な影響を与えたのである。」
非二元的覚者が自覚している、そして私たちがそうとは知らずに生きている宇宙は、<愛>によって創られていたのです。ただ<愛>だけがあるのです。
「大円
還流するエロス(一者へと帰還する多者、智慧と善)
流出するアガペー(多者となる一者、慈悲と善性)
の形作る円。
この大きな枠組みの中で、
エロスとは低位から高位へと差し伸べられる愛(上昇)であり、
アガペーとは高位から低位へ差し伸べられる愛(下降)である。
個人の発達においては、
人はエロス(より広い、より高いアイデンティティへの拡大)を通じて上昇し、
アガペー(下位の存在を思いやり、抱擁する)を通じて統合する。
こうして調和のとれた発達は超越し、包括する。
同じように、私たちに対して高位から現在の発達のレベルに差し伸べられる
コスモスの愛はアガペー(慈悲)である。
私たちはそれに愛を持って答える。
それはアガペーの源泉が、自分の発達のレベル、私たち自身の自己となるまで続く。
高位の次元のアガペーは、私たちのエロスのオメガとしての引力である。
智慧を通じて、私たちを上昇へと招き、私たち自身の慈悲の輪をさらに、
さらに多くの存在へと及ぼすように拡大していくのである。
こうして私たちは、今<私たちのなか>にあるすべての存在に
アガペーあるいは慈悲を表現できる。
つねにアガペーとエロスとは、非二元の<ハート>の中でのみ結ばれるからである。」
私たちには常に、コスモス、霊的な領域から<愛>が降り注いでいるのです。この<愛>は私たちをその源までたどるよう、常に促している。それにどれだけの愛を持って答えられるかが、終点までの道のりを短くする鍵になるのではないでしょうか。同時に私たちは、降り注がれた<愛>を、「私」を形作るすべての存在に分け隔てなく与えなくてはならないのです。上昇し下降する<愛>。覚者によれば、この<愛>のエネルギーは無尽蔵であり、どんな片隅にも忘れることなく行き渡るものであるということです。この<愛>がないという場所はないのです。それが非二元的霊性の秘密です。
・フォボスとタナトス、危険な上昇者と下降者
スピリットの二つの動きを統合するには、非二元的な覚醒が必要です。従ってこの覚醒が起こるまでは、私たちは上昇と下降を一緒のものと見れず、相反するものとして捉えてしまいます。つまり上昇の道か下降の道かどちらか二つのうちの一つに偏りがちになるのです。上昇の道を行く人はそれだけにはまり込み、下降の道を行く人はそれ以外の道を嫌悪し無視してしまいがちになるのです。この根本的な二元論を覚醒によって克服できないがゆえに、私たちは分裂の人生をしいられるのです。ウィルバーは、エロスとアガペーが個人の中で統合されないとき、エロスはフォボス(恐怖)になり、アガペーはタナトス(死の欲動)として現れるといいます。
「すなわち統合されないエロスは、ただ高位に手を差し伸べて、低位を超越するだけではない。それは低位を切り放し、低位を抑圧するのである。そうするのも恐怖(フォボス)のためである。低位によって引き摺り下ろされないかと言う恐怖、汚染されるという恐怖である。フォボスとは低位を抱擁する代わり、そこから逃走したエロスである。フォボスは下降と切り放された上昇である。フォボスこそ、抑圧の最終的な原動力である。
このフォボスが単なる上昇者の原動力となる。
他界への絶望的な希求から、この上昇するエロスは、フォボスに全身を浸されている。それは禁欲的な抑圧、この世のものすべてに対する否定、恐怖、憎悪に満ちている。
危険な人々である、この上昇者たちは。
なぜなら、彼ら誰もが例外なく告白する高位への愛の影に、フォボスがうごめいているからである。頬に伝わる涙、うっとりと見上げる眼の影で、上昇者は世界を破壊しようとする。少なくとも世界が死に絶えるのに任せるー約束の土地を手に入れるために。約束の土地について、一つだけはっきりと理解されているのは、それがこの世の土地ではない、ということである。絶対にこの世ではありえない。この世界とは、芯まで影であり、深い欺瞞であり、良くて幻影、最悪の場合、悪魔の住むところである。上昇者はこの世界を破壊しようとする。なぜなら、それが彼らが完全に軽蔑していると確信できる唯一の土地だからである。」
修行者の中には、現実の世界でうまくいかないため、超能力や神秘体験といった、自我を肥大させるだけの事に興味を持って始めるものも少なくないのではないでしょうか。あるいは世の中の不合理で汚いやり方にあいそをつかし、現実には目もくれず、ただひたすら自分だけはそのようなことに関わらずに生きようと始めるかもしれません。このような動機は誰でも少なからずあると思いますが、極端な形でそれだけを追求してしまうと危険な方向へと行ってしまうのです。
まさにこの危険な上昇者たちを私たち日本人は、「地下鉄サリン事件」において目の当たりにしたのです。日本においてスピリチュアルな問題を語るときには、避けて通れない「オーム真理教事件」は、単に気がおかしくなった指導者のせいにして済ますことはできないのです。そこには修行者が上昇を目指すときに誰もが陥りやすい罠があるからです。つまり、麻原をはじめ、信者たちは、骨の髄まで「フォボス」に浸されていたということです。堕落した世間に引きずりおろされたくないため、あれほど家に戻ることを拒み、今だに帰れないでいるのです。彼らの望むものはこの世界には全くないのです。サリンをまいて世界を破滅させようとしても驚くにはあたらないのです。なぜならこの世界は幻影であり、苦であり、見てはならないものだからです。これは上昇だけを極端に押し進めれば必然のことなのです。
従って、「オーム真理教」だけでなく、「白装束集団」(汚染されるのを極端に嫌う)はじめ、カルト教団、新興宗教は、フォボスに支配されやすいのです。また霊的修行はどんな人でも、上昇から始めざるをえないので、誰もが気をつけなければならないことだと思います。ニューエイジや精神世界で言われる「アセンション」もこの世界からの超越をうたっていますが、これも同じです。「アセンション」は真実ですが、非二元的霊性から言わせれば、それは半分の真実であるということです。ポイントは、下降、他者への思いやり、慈悲を常に忘れないということです。そしてこの慈悲を向ける相手はすべての存在であるということです。実際的な指示としては、身体、生命、自我と、発達してきた段階を、自分の中で気遣う、あるいは大事にするということです。結論を言えば、非二元的な霊性に基盤を置かない組織、集団は、常に危険な上昇に陥る可能性があるということです。
それでは次に上昇者の逆の危険を見ていきましょう。
「タナトスは、その逆に上昇から切り放された下降である。それは高位から逃走した低位である。狂った慈悲である。低位を抱擁するだけではない。そこまで退行しようとするのだ。低位を思いやるのではない、それにとどまろうとするのだ。(固着)。統制のきかなくなった宇宙的な縮小・還元である。こうした縮小・還元的な原動力の行きつく先は、源泉との結びつきを失った死と物質である。タナトスは、高位を表現する代わり高位から逃走しつつあるアガペーである。それは低位を保存するが否定することは拒否する。従ってそこにとどまる。フォボスが抑圧と分離の源泉ならば、タナトスは退行と還元、固着と停止の源泉である。高位を殺すことで、低位を守ろうとするのだ。
そしてタナトスが、単なる下降者の原動力である。
他界などというものからおさらばせよ、と、この下降者たちは喜びの声を上げる。彼らの下を向いた眼は、多様性の驚異に釘付けになっている。彼らの無限の喜びは、無限を有限の容器にはめ込もうとする恐ろしい仕事に始める。すべての他界からおさらばだ。彼らは影を喜びと結びつけ、すべてをすりつぶす輪廻の車を抱きしめ、接吻し、彼らの苦悩の源泉と結婚しながら、叫ぶのである。洞窟からの最終的な解放を見つけられなかったという失敗、有限な檻の中にとらわれているという怒りは、彼らに賛同しないもの、影への愛を共有しない哀れな連中に向けられる。
低位を抱擁しない高位。低位の名の下に殺害される高位。アガペーではなく、タナトスである。下降者がすべてに対して持っていると公言する愛には、死の手の刻印が押されているのだ。そしてそのあいだにも、下降者の慈悲に満ちた顔には涙が滴り落ちているのである。
危険な人々である、この下降者たちは。
アガペーと慈悲の名の下に彼らは低位を抱擁せんとする絶望的な希求の中で、すべての高位を誤って破壊してしまうのである。もっと危険なことに、彼らは哀れな有限のこの世界を無限の価値を持つ世界に変えようと試みるのだ。あらゆる下降者が、あらゆる方法で、まさにこれを行おうとした。彼らはゆっくりと、必然的に、不可避的に、この世界を破壊する。哀れな世界にけっして背負うことのできない重荷を課すからである。下降者はこの世界を破壊してしまう。それが彼らの知るただ一つの世界だからである。」
この危険な下降者はどこにいるのかと言えば、まさに私たちの社会は下降者たちの支配する社会なのです。他界的なもの、非科学的なもの、神秘的なものは、すべてあやしいものとして、排除しようと躍起になるのです。どこかで自分より高い人間性を獲得したものがいるということを絶対に認めません。そして誰かが抜け駆けをして、高い境地を求めようものならそれをばかげたものとして、ヒステリックに阻止しようとするのです。特に合理的な自我は、自分より上を認めません。そういったものにはすべて疑いの眼差しで見て、徹底的に嫌悪します。オーム真理教の元信者や家族を絶対に受け入れようとしない怒りに満ちた住民や自治体は、まさに上昇から切り放された下降者の典型のように思えます。彼らは上昇のみを見ることの危険を感じていますが、真の上昇の先にあるものを見ることを怠るがゆえ、危険な上昇者と同じように、世界を停滞させているのです。つまり現代社会は、産湯と同時に赤子も投げ捨ててしまったのです。
タナトスとは、現状を維持し変化を求めないで安心していたいという傾向です。自分たちの世界とは異なった世界を希求する人たちは、徹底的に排除しなくてはならないのです。なぜなら、自分たちの生活、考えが脅かされるからです。こうして下降者は、満足は得られなくとも、より安定的な物質社会にしがみつくのです。人類の歴史を通じてこの危険な下降者は、最先端の意識に対して破壊的な行動をとってきました。イエスやソクラテス、ジョルダーノ・ブルーノ、アル・ハッラージュは、本当のことを公言したがために殺されました。
近代以降支配的となった下降者は、物質と自然だけを見つめ、そこに永遠の解放を見出そうとします。しかしそこに見出されるのは、変化と死だけなのです。下降者はいかなる高さも認めないので、現代の社会はどれがいいことなのかの価値も見出せず、従って究極的には人生の意味も見出せないでいるのです。ウィルバーは、価値や意味といった深さがない「フラットランド(平板)」の世界と呼びました。そしてフラットランドの世界観こそ内面に現れる「愛」が形作るコスモスを倒壊させた張本人であると批判します。ウィルバーは、物質的機械的世界観(フラットランド)に、内面を持ち込むことが、狂った世界をたて直す最初のステップであるといいます。
・プロティノスによるグノーシス批判
危険な上昇者と危険な下降者にならないために非二元の覚者の言葉を聞いてみましょう。
「上昇と下降、エロスとアガペー、智慧と慈悲、超越と内在のバランスをとり、統合する必要があるということーこの非二元的な統合は、プロティノスの偉大な、そして永く続く貢献であって、思うに、単なる上昇、単なる下降がもたらす暴力や野蛮さに疲れ果てた人間にとって、つねに闇の中を指し示す光となってきた。
プロティノスは、この世界ないしあの世界のどちらかだけを讃えようとする人々に対して妥協しなかった。そうした人々はどちらも完全にポイントを見失っているのである。プロティノスは言う。
自己の成長とは、そのステップごとに、
より多くの外界を自分たちの内部に取り込むことである。
より多くのものを閉め出す事ではない。プロティノスにとっては世界を否定することは、あるいはどんな存在も否定することは、その意味から言えば完全に病の兆候であった。」
プロティノスは非二元的な立場から、元因的な上昇だけを望む姿勢を徹底的に批判しました。その一番の標的がグノーシス派でした。グノーシスとは超越的な智慧という意味で、グノーシス派はこの世界を影とし、徹底的に嫌悪することによって、元因的な悟りに到達していました。しかし、非二元には到達していないので、世界は幻想にすぎないという部分しか教えていませんでした。それに対してプロティノスは後に世界的に有名になった一節で反駁します。それは非二元的覚醒の最高の光を放っています。
「人間が善となるのは、世界とそこにおける美を軽蔑することによってなのだろうか。
グノーシス派は天上世界における神々を尊敬するなどと告白する権利を持たない。
我々が誰かを愛するとき、我々は彼に属するすべてを愛する。
我々は両親に対する愛をその子どもたちにも拡張する。
さて、すべての魂は<至高存在>の娘らである。
いったいいかにして、この世界と霊的な世界を分けることができようか。
霊的世界にかくも近しいものを軽蔑するものは、
そのことによって霊的な世界に関する完全な無知を証明しているのである。
彼らが知っているのは、ただ名前だけである。
それ(あらゆる個別の魂)が偉大な魂を観照するにふさわしいものであるようにするためには、
野卑な魂を虜にするような欺瞞やその他すべてを静かな想起によって取り除かなければならない。
そのためには、すべてを静寂にせよ。
すべての環境を穏やかなものにせよ。
大地が穏やかになれば、海も、空も、天上も穏やかになるであろう。
魂がこの穏やかな世界のあらゆるところから差し込んで来て、
注ぎ込み、充満し、照らし出すのを観察せよ。
太陽の輝く光線が暗い雲に金色の縁取りをするように、魂も天体の中に入ってきて、
それに生命と時を知らない美を与え、眠りから覚ますのだ。
かくして魂の時を知らない運動に根づいた世界は、
知性に満たされ、生きた、祝福された存在になるのである。
スピリットは、この広大な天体のあらゆる点に自らを与え、
偉大なものにも卑小なものにもあらゆる部分にその存在を保証する。
部分は空間や組成の法則に従って分割され、
あるものはお互いに対立し、あるものはお互いに依存するけれども。
しかし魂は分割されていない。
あるいは他の個体に生命を与えるために自らを切り刻んだりしない。
万物は魂の完全性において生きているのだ。
すべては現前しているのだ。
天体は、広大で多様であるが、魂の力によって一つである。
そしてこれが我らが神聖なる宇宙なのだ。
太陽もまた神聖である。
星も神聖である。
我々もまた神聖である。
もし我々に何らかの価値があるなら、それは魂によってなのだ。
このことによって、あなたは神聖を獲得できることを確信せよ。
そして、そのためにはそれほど遠くまで行く必要がないことも・・・。
プロティノスは、この時点において、元因的上昇的霊性に別れを告げ、西洋における非二元的霊性を確立したのです。そして東洋においてはこの大役は、ナーガールジュナが成し遂げました。ナーガールジュナも元因的上昇的霊性を批判するところから始めます。
「ナーガールジュナがこれこそもっと歪み、かつ部分的でしかないと感じた学派の論難を始めたとき、論難したのは、多くの仏教徒が予想したヒンドゥー教ではなかった。彼が激しく攻撃したのは、初期仏教(小乗およびアビダルマ)であって、その攻撃は仮借のないものであり、強力で、その論理にはすきまがなかった。これはプロティノスがグノーシス派に加えた論難と同じである。」
TRVムルティはこのように言っています。
「ナーガールジュナは、アビダルマの体系ー要素の教義(法ダルマ)を論駁するのに弁証法(批判的分析)を適用した。彼の主著の一つ中論は初期仏教の独断的な解釈への批判から出発して、<空>の教義をさらに発展させようという持続した試みである。」
ナーガールジュナは、輪廻と涅槃は同一のものだといい、どちらか一方だけでは存在できないことを証明することにより、非二元的な<基底>に眼を開かせました。
この二人の偉大な先駆者に対してウィルバーは最大の賛辞を与えています。
「二人の魂は、西欧においても東洋においても、歴史的に類を見ない霊的な革命をもたらした。興味深いことに、プロティノスもナーガールジュナもほぼ同じ世紀に生きていた(2,3世紀)。
<世界霊>(ワールドソウル)はこの特定の時期、確かに霊性の新しいレベル(すなわち非二元)に向かって格闘していたのだ、といいたくなる。
こうして世界中で、洋の東西、南北、すべての非二元派は道をたどれば、二つのもっとも偉大な魂、真の意味での世界英雄にたどり着くのである。」
・<愛>の上昇と下降が織り成す宇宙
永遠の哲学によれば、私たちが住んでいる世界は、物でできているのではなく、<愛>でできているのだといいます。キリスト教神秘主義の現代版とも言える「ア・コース・イン・ミラクル」(奇跡についてのコース)でも、中心にあるのは「愛だけが真実である。」というものです。私たちの深いところでは、聖なる存在へと向かう愛と、すべての存在へと向かう愛が、流れているのです。この上昇し下降する円環の<愛>のエネルギーが、「恐れ」のために相反する分裂した動きとなっているのが私たちの現状です。永遠の哲学によればこの「恐れ」を手放し、非二元的な覚醒、基底を見出せば、二つの動きは再び結び合わされ統合されるといいます。
そして私たちが、すべての存在を聖なる存在として思いやる時、この非二元的な叡智のかすかなきらめきを放っているのです。まさに<愛>はすべての存在に分け隔てなく、どんな時どんな場所にも、常に降り注がれているので、私たちもそのようにするのです。他者のために何かをしようとする時、この<愛>の流れに乗るのです。「恐れ」のために自分を守ろうとする時、この<愛>の流れを堰きとめてしまうのです。「恐れ」と正面から向き合い体験することにより、「恐れ」は手放せます。そしてあるがままのスピリットが、奔流のように流れ込んでくるのです。
非二元的な覚醒が現れたところではどこでもこの<愛>が叫ばれてきました。叡智の伝統の現代における真の継承者、ケン・ウィルバーからも、同じ<愛>が力強く聞こえてきます。
「そして<愛>だけが今日に輝く。
輝きは言う。
すべてを愛すること、
夢中で愛すること、
終わりなく、力強く、
分け隔てすることなく愛すること、
そしてすべての中に入ること。
無心で愛し、かくして全部になること、
輝くような神性を抱擁せよ。
空性として、形態として、共に、永遠に、
神なき探究を終わらせ、
今日、
<愛>だけを輝かせよ。」
引用
「進化の構造」