発達のメカニズム
意識の進化はどのように起こるのか
「自己」から「自己」への道において、ケン・ウィルバーの意識の発達理論をベースに私たちが辿る意識の旅路を見てきました。9つの段階とすべてを含んだ非二元的基盤で構成される意識の地図を簡単に表すと以下のようになります。
意識の構造 世界観 病理 治療の様式
9、元因(コーザル)段階、 元因的 元因的病理 無形神秘主義、賢者の道
空、無、最高神、ブラフマン
8、微細(サトル)段階、至福 微細的 微細的病理 神性神秘主義、聖者の道
尊格、元型、種子マントラ、光
7、心霊(サイキック)段階、 心霊的 心霊的障害 自然神秘主義、ヨーギの道
超個、超常現象、
6、ケンタウロス段階、 実存的 実存的病理 実存的セラピー
ヴィジョン・ロジック
5、形式的操作段階、 合理的 アイデンティティ 内省
理性、合理性 の危機
4、具体的操作段階、 神話ー合理的 偽りの脚本 脚本の書き換え
規則・役割的
3、表象的段階、 神話 精神神経症 暴露的技法
概念的自己
2、情動的段階 呪術的 自己愛的境界例 構造・構築技法
生物的自己
1、感覚的段階 古層的 精神病 生理的沈静化
物質的自己
10、非二元的(ノンデュアル)、非二元的神秘主義、悟り、真の自己、スピリット
発達の出発点であり、またすべての発達の到達点
すべての段階を超えていると同時にすべての段階に浸透している
・構造、自己、世界観
ケン・ウィルバーの意識論では、自己でないものから真の自己へ向かうのではなく、在るのは唯一「真の自己」「悟り」「神性」「スピリット」だけであることが前提となっています。そしてこの真の自己は見かけ上、段階を登るように成長していくというものです。「自己」は段階を上がるにつれて、より自分自身を展開していくことになり、下位の段階を含みながら超えていくという入れ子の構造になっています。
この「自己」の展開を詳しく見ていくと、段階としての梯子(基本構造)と梯子の登り手(自己)、梯子からの眺め(世界観、欲求、道徳感覚)という三つの要素があることになります。基本構造は、梯子として表現しましたが、イメージ的には、下位の段階を含んで広がっていく同心円の重なりとして考えたほうがいいかもしれません。
梯子の比喩についてウィルバーはこう述べてます。
「梯子という比喩が役に立つのは、かなり明瞭な段階において現れる意識の基本的な構成要素を表示できるからです。梯子の低い段を破壊すると、高次の段も一緒に破壊されます。一方、梯子の比喩がまずいのは、実際には高次の段階が低次の上に乗っているのではなくて、それを包含しているからです。細胞は分子を、分子は原子を包含しているようにです。それは入れ子になった階層構造なのです。しかし、私はよく梯子の比喩を使います。それが成長のレベルをよく強調できるからです。
例えば、発達においてシンボルはイメージの後に、概念はシンボルの後に、規則は概念の後に、というふうに現れるのです。この順序は、逆にはできないのです。どんなに社会的な条件付けをしても、この順序を変えることはできません。文化横断的なもので、例外はありません。文節の前に単語が、文章の前に文節がくるように、基本構造は先行する段階を包含しているのです。」
この基本構造は古今東西の何百という事例から導き出されたものであり、私たちの誰もが潜在的に同じ構造を持っているものです。しかし、いくら潜在的に持っているといってもこの構造を浮上させ、梯子を実際に登って行く人がいなければなりません。人生の本当のドラマはこの登り手によって演じられます。この登り手が自己であり、自己によって無限のドラマが展開していくのです。
ここでのポイントは、基本構造、段階と、自己、意識そのものを区別するということです。このことは特定の段階に留まらず成長していくためにとても重要です。要するに、「自己」は様々な基本構造と自分を同一化するのです。「自己」を段に割り振るのです。これが様々なタイプのアイデンティティと、自己成長の様々な段階を生み出すのです。つまり成長し進化する基本構造があるばかりでなく、自己は実際にそれを通りぬけなければならないのです。拡大する意識の梯子を実際に登っていくのです。そういった意味で、意識の発達は、潜在的には内蔵されていますが、梯子を踏み外す(病理を起こす)ことはいつでも起こりうるのです。
・発達の形式
この「自己」は基本構造に同一化し、その構造に特徴的な自己感覚を身につけます。それではここで意識はどのように発達するのか?発達の形式、変容の形式について見ていきましょう。
「我々が成長の主要な段階ごとに見てきたのは、心理学的発達のプロセスは実に明瞭な形で進行するということです。各段階ごとに、一つのより高次の構造ーより複雑で、それゆえにより統一されたものーが、、先行するより下位の段階からの差異化を通じて浮上します。この高次の発現は、種々の象徴的構造によって媒介、ないし介助されます。(象徴的構造とは、イメージ、言葉、概念、ヴィジョン・ロジック、元型、尊格、光、神性、無形なるもの、空など)すなわち、上昇の各段階ごとに、しかるべき象徴的構造ーそれ自体その段階で浮上するものーが、そのレベル特有の意識モードを次のより高次の意識モードへと変容させるのです。」
ユングはシンボル(象徴)とは、エネルギーを変容する仕組みであるといいましたが、意識が次の段階へ超越するには、次の段階特有のシンボルが関わっているということです。例えば幼児に「言葉」というシンボルを与えると、情動的段階の基本構造の中から表象的構造が浮上し、意識は変容します。幼児は言葉を理解することはできませんが、それでも言葉というシンボルを与えることにより、潜在的な言語構造が浮上し、言葉を操るようになるのです。
この原理はトランスパーソナルな領域にも当てはまります。自我つまり現在の大半の人にとって霊的領域を理解することはできません。そこで霊的領域を表すのにシンボルを使うのです。ヒューストン・スミスはシンボリズム(象徴主義)とは、リアリティのなかの異なったレベル間の関係性を扱う科学である、といっています。霊的領域のシンボルは、尊格、光、種子マントラ、導師、空性、神聖図形などがありますが、これらを瞑想することにより、意識は霊的な領域に上昇していくと考えられます。つまりシンボルとは現段階より高次の段階の事実に他なりません。自我が言葉を使って表現できるように、魂は光やマントラを使って自らを表現するのです。こういった意味で霊的成長を望むのなら、何らかの真の霊的シンボルを選んでおくことが必要なのです。それは私たちのエネルギーを変容させるものなのです。
・変換と変容、表層構造と深層構造
ここで変換と変容、表層構造と深層構造の違いを理解しておくのが重要でしょう。
「意識の各レベルは深層構造と表層構造からなっています。深層構造は、一つのレベルを定義づける形式であって、そのレベルのあらゆる潜在的可能性と限界を表しています。表層構造とは、その深層構造のある特定の発現です。表層構造は深層構造の形態によって規制されるが、その形態の中では様々な内容を選択する自由をもちます。(例えば肉体という形態の中で、人は歩く、走るといった選択ができる。これらの表現形態に共通するのは、人間の身体という深層構造である。)
深層構造はパラダイムのようなもので、そのなかにあらゆる基本的限定則を含み、表層構造はそうした原則に従って発現します。単純な例として、9階建てのビルを考えてみよう。各階は深層構造であり、それぞれの階にあるいろいろな部屋や物は表層構造だといえます。物質的自己が一階にあり、自我が五階にあり、魂が八階にあり、神は最上階にあって、非二元のあるがままの意識はビルそのものであるといえます。重要なのは、例えばあらゆる自我は一つひとつかなり違っているが、それらはすべて五階にあり、同じ深層構造を共有しているという点です。
表層構造の動きを変換と呼び、深層構造の動きを変容と呼びます。すなわち、もし四階にある家具を移動させれば、それは変換であるが、七階まで上がっていけば、それは変容ということになります。一度ある特定のレベルの自己感覚が形成されると、それはある程度持続的な一連の変換の仕方によってみずからを維持します。自己はそのレベルの深層構造に従って内面や環境、人間関係、価値、欲求を変換します。このため自我レベルの人は、永続的に世界を合理的言語的に分けて変換し、自己中心的に編集し続けることになるのです。
言葉を変えれば、いまや自我レベルへと変容されたその人の自己のモードは、ほとんど不断の特殊な変換の流れによって維持されるのです。だとすれば、特定の変容は必ず新種の変換を生み出す可能性をうながし、それらの変換はまたその変容を支え、維持する助けとなります。このため、ある一連の変換が目的を果たせずに破綻すると、個人は必ず大きな変容に向かうことを余儀なくされます。いつであれ変換が破綻すると、その後に変容が続く。この変容は退行的でもありうるし、発展的でもありえます。(ここのところはきわめて重要なので瞑想のコンテンツで詳しく取り上げます。)
さらにもっとも重要なことは、あらゆる深層構造は、厳密なプラトン的「想起」という意味において想い起こされるものであるのに対して、すべての表層構造は、西洋心理学が研究してきたような意味で学習されるものだという点であります。一般的な合意によれば、人はブッダ(仏)になるのではなく、ただ自分がすでにブッダであることを発見、あるいは想起するのだといいます。これは永遠の哲学の議論の余地のない事実です。それと同様、どの深層構造も決して学ばれるのではなく、その表層構造の学習に先立って、ただ単に発見、あるいは想起されるのです。誰も身体を持つことは学習しないが、身体を使って野球することは学習するー深層構造は発見し、表層構造は学習するのです。この根本原理は、もろもろの上位構造を下位構造から説き起こそうとする退屈さから(自我からブッダを導き出す)我々を救ってくれます。。」
変容のシンボルによって高次の構造が意識に導入されると、しだいに自己はその新しく浮上した構造に同一化していきます。幼児に言葉という高次の構造を与え、徐々に言葉の構造を操作しはじめるように。この時幼児はもはや身体的な自己だけに排他専一的に同一化してはおらず、身体からのある程度の自由を獲得するのです。徐々に身体から脱同一化しはじめ、自我との同一化を深め、自我としてふるまうようになります。そのとき、自己は身体や情動、本能の排他専一的な拘束からは解放されていますが、代わりに自我に拘束されるようになるのです。つまり、自分の意見、立場、思考に排他的に同一化するのです。大半の大人の方はこういう状況なのではないでしょうか。
それでは、自我との脱同一化をすると何が起こるのでしょうか。
「より進んだ発達においては、神格ー元型が浮上し、意識に導入されると(微細領域)、自己はその神格に、その神格として同一化するとともに、その同一化に基づいて機能するようになります。そのとき、自己はもう排他専一的に自我に拘束されてはいませんが、代わりにそれ自身の元型に拘束されるのです。」
自己は自我を脱ぎ捨て、神格を身にまとうが、それさえも脱ぎ捨てると、本来の自己そのものとなるのでしょう。
「ようするに、一つ一つの高次の構造が浮上するたびに、自己はやがてその構造に同一化するのです。これは正常で、自然で、適切なことです。しかしながら、発達が進むにつれて各レベルは結局その自己から差異化していきます。自己はその下位構造との排他専一的な同一化から離れていくのです。その構造を放棄するのではなく、ただそれ以上その下位構造に対して排他専一的に同一化しなくなるのです。要点は、より下位の構造から差異化することによって、自己がそれを超越し(いかなる形でもそれを抹消することなく)、その結果新たに浮上した構造を利用しながらその下位構造を操作できるようになるところにあります。
こうして、情動的身体的自己がその物質的環境から差異化したとき、それは身体そのもの(筋肉)を道具として用いてその環境を操作できるようになるのです。さらに、自我が身体から差異化すると、それは自我特有の道具(概念)を使って身体と世界に働きかけるようになるのです。微細自己が自我から差異化すると、それは微細自己特有の構造(超感覚的力)を用いて心と身体と世界に働きかけるようになるのです。」
操作できるかどうかが鍵になるようです。現在の私たちの大半が留まっている自我のレベルでは、自我自体を操作することはできないため、自分の意見に固執しがちになるのは仕方のないことでしょう。自我から脱同一化してはじめて、自己中心的な姿勢から脱却できるのです。
以上の発達のパターンをまとめるとこうなります。
「(1)あるより高次の構造が意識内に浮上し(様々な象徴的形態を借りて)(2)自己はその上位構造にみずからの存在を同一化し、(3)やがて次のさらに上位の構造が浮上し、(4)自己は下位構造と脱同一化して、本質的なアイデンティティをその上位構造へと移行させ、(5)それによって意識は下位構造を超越し、(6)上位レベルからその下位構造に働きかけるようになり、(7)その結果、先行する全レベルが意識の中で統合されます。
もっと簡単に表すと、(1)融合/同一化 (2)差異化/超越 (3)統合/包含という、1−2−3プロセスになります。
(1)自己は意識の新しいレベルへ発達する。そしてそのレベルと同一化ないし、「一つになる」(2)次にそのレベルを超え始める。ないし、そこから差異化、脱同一化、超越する。(3)新しい高次のレベルに同一化する、あるいはそこに中心を置く。
また、新しく現れる上位構造は、より複雑で、より組織化され、より統一されたものであります。発達は、あらゆる点で究極的な「統一性」のみが存在するところまで継続し、そこに至ったとき、発達の推進力は底をついて、意識は「光輝」の内に、全世界としての完全なる解放を得るのです。」
以上見てきたように発達とは下位構造を包含しているため、あるレベルで「全体」であったものが、次のレベルでは「より高次の全体の単なる「部分」にすぎなくなります。例えば、幼児は身体的自己の段階であり、身体が幼児の自己感覚のすべて、「全体」になっています。しかし、心が浮上するとともに、身体は、自我という「全体」の単なる一側面、「部分」にすぎなくなるのです。もっとも部分だからといって重要でなくなったということではありません。部分がなければ全体もありません。
同様に、微細レベルが浮上するとともに、心と身体(つまり現在の私たちの自己感覚の全体)は、新たなより包括的な自己である魂の、単なる一側面、部分にすぎなくなるのです。魂は自我を放棄するのではなく、道具として使えるようになるのです。自己中心的な視点に拘束されない魂は、自我や身体をより自由に働かせることができるようになるのでしょう。魂は自我から世界を見ることはしないので、自我の条件付けや思い込みによって、世界を歪めることはしなくなります。あるがままに見れるようになります。
・新しい世界の出現ー変わりゆく眺め
「発達的な展開のそれぞれの段で、世界は異なった眺望を見せます。それは自己と他者に対する異なった見方です。異なった世界観です。発達的な展開のそれぞれの段において世界は異なって見える。実際に異なっているのです。意識が成長するにつれて異なった世界空間、異なった世界が誕生してきます。物理的な目に反映されるようなたった一つの所与の世界などないのです。」
意識が変われば、見えている世界も変わり、生きている現実も変わってきます。当然、価値観や欲求も変わってきます。つまり世界観も段階をなしているということです。宗教や民族、国家の争いには、こうした世界観の戦いが根底であるので、階層的な世界観に対する認識はこれからとても重要になってくると思われます。
それぞれの段階からの世界の眺めを見ていきましょう。
「もし第一レベル、感覚的段階の構造しか持っていないとしたら、世界はまるっきり未分化で判然としないものに見えます。全体的融合の世界です。原始的な性質のため古層的と呼ばれます。
第二レベル、情動的段階の出現と共に、イメージや初歩的なシンボルが発達します。自己は世界から分化しますが、まだ両者は密接にくっついた半融合状態にあります。だから自己は思ったり願ったりするだけで、世界に魔術的に影響を及ぼすことができると考えています。こうした世界観は呪術的です。
第三レベル、表象的段階では、自己と他者は完全に分化します。そのため魔術的信念はなりをひそめ、神話的信念がこれにとって代わります。もはや魔術のように、自分で世界を秩序付けることはできませんが、もし神を喜ばせる方法を知っていたら、神が世界を秩序づけてくれます。自分の個人的な願いをかなえたいなら、神に請願や祈りを捧げなくてはなりません。そうすれば、神が自分に代わって介入し、奇跡を通じて自然界の法則を停止してくれるでしょう。これが神話的世界観です。
第四レベル、具体的操作段階では、儀礼の能力が現れ、また自分の祈りが必ずしも応えられないという理解も生じるので、神を喜ばせるために自然を操ろうとします。そうすると神は自分に代わって神話的に介入してくるのです。祈りには念入りな儀式をつけ加えます。それはすべて、神に介入してもらうため周到に工夫されたものです。この段階を神話的ー合理的と呼びます。
第五レベル、形式操作段階の出現と共に、自分の自我的な気まぐれを満たしてくれる人格神に対する信仰はたぶん正しくないのだ、という理解に達します。信じられる証拠は何もないし、とにかく確実に自分の願いをかなえてくれるわけではないのですから。自然から、たとえば食べ物のような何かを求める時も、祈りをやめ、儀式をやめ、人身供犠もやめ、自然に直接に働きかけるようになります。仮説ー演繹法的論理、すなわち科学によって、自分の必要とするものを直接追い求めます。これは大きな進歩ですが、マイナス面もあります。世界は意味のない物質の断片から成り立っており、何の価値も意味もないように見え始めるのです。これが合理的な世界観、しばしば科学的唯物論と呼ばれます。
第六レベル、ヴィジョン・ロジックが現れると、この世にもあの世にも、合理的人生観で想像していたもの以上のものが何かあると理解するようになります。肉体を統合することにより、世界は再び魅惑的なものになります。これが実存的世界観です。私たちの住んでいる世界が、物・生命・心・魂と階層的になっているという考えられるのもこの段階からです。
第七レベル、心霊的段階が現れると、自分が夢想していた以上のものが、この天地には実際にある、と直接体験として理解し始めます。この世の顕現の背後に横たわる単一の神性を感じ始め、その神性と親しく交わるようになります。ここでいう神性とは神話的信仰ではなく、内的な体験です。これが一般的な心霊的世界観です。
第八レベル、微細段階では、神性を直接知り、神性と一つであることを発見します。しかし、それでも魂と神は二つの別の存在論的な実体であると考えています。これが微細レベルの世界観、つまり魂があり、トランスパーソナルな神がいるが、それは微妙に分離している、という世界観なのです。
第九レベル、元因段階では、この分離は破壊され、至上のアイデンティティが実現されます。これが元因的世界観、「そは汝なり」の世界観です。純粋な不二のスピリットであり、万物と矛盾なく存在し、それでいて何ら特別なものではないのです。禅でいう、「木を切り、水を運ぶ」という世界です。」
世界観の発達で重要なポイントは、呪術的・神話的世界観よりか合理的世界観のほうが、発達しており包括的なのだということです。しばしば、合理性は霊的な段階へ向かうための障害とされてきましたが、ウィルバーの見方では、神話よりかは合理性のほうが霊的なのです。障害ではなく霊的成長への手段なのです。
「科学は、私の考えでは、私たちのスピリットに関する子供じみた青臭いとらえ方を取り除き、前合理的な世界観を払拭します。これは、より高度な発達段階における、純粋に超合理的な洞察を獲得する余裕を自己の中に作るためであり、その高度な発達段階こそが純粋に神秘主義的、あるいは瞑想的な進化のトランスパーソナルな段階なのです。科学はまた、心霊段階、微細段階に達するために、呪術的、神話的世界観をも取り除きます。
この意味では科学、合理性は、真の霊的成熟へ向かうための、進化の道筋に沿った、欠かすことのできない健全なステップなのです。合理性とは、<スピリット>へ向かう<スピリット>の動きなのです。これが多くの偉大な科学者が偉大な神秘思想家でもあったゆえんです。」
参照
「アートマンプロジェクト」 「万物の歴史」 「グレース&グリット」