「自己」から「自己」への道
ケン・ウィルバーの意識の発達理論

私たちはどこへ向かっているのか?

私たちが普段生活している意識状態はあたりまえのこととして改めて考えてみるということはしませんが、生まれた時からこの状態ではなかったわけです。今のこの意識に到達するためにどのような発達をしてきたのかを知ることは、今の自分の尊さを知ることにつながりとても意義のあることだと思います。どのように困難を乗り越え発達してきたかのプロセスについてわかれば、意識のさらなる発達に向けて参考になることでしょう。それでは、私たちがなしてきた偉業について、またこれから為すであろう偉業についてケン・ウィルバーの研究を見ていきましょう。

ケン・ウィルバーの研究はすべてそうですが、志向的一般化というやり方から導き出しています。発達をたどる前に、志向的一般化についての説明を見ておきましょう。

・志向的一般化
「例えば、道徳性(善悪の判断基準)の発達段階を論じるとき、誰もが発達心理学者コールバーグによる道徳性の七つの発達段階を細かいところまで、あるいは同じく心理学者のギリガンによるコールバーグの段階の修正について細かいところまで賛同しているわけではない。しかし、人間の道徳性が少なくとも三つのおおまかな段階を経ることについては十分な一般的合意がなされている。

すなわちどんな道徳システムにもまだ社会的に組み込まれていない誕生期の人間(前慣習期)、自分からあるいは他者から、自分が育っている社会の基本的な価値観を表すような一般的な道徳的枠組みを学ぶ時期(慣習期)、さらに成長を続け、自分の社会を客観的に考え、ある距離を保ち、批判または改革する能力を得る時期(脱慣習期)の三つの段階である。

従って発達の過程の細かい部分やその正確な意味はまだ真剣に議論されているけれども、誰もが合意しているのはおおまかに三つの段階が起こること、それも普遍的に起こることである。これが一般的志向化の方法である。この方法によればどこに大きな合意があるのかを見ることができる。木の数には同意しなくても、森を見ることができるのである。

志向的一般化の方法を使ってさまざまな知の分野から大きな合意点を求め、それを数珠のようにつなげてゆくことにより、驚くような、またしばしばとても深い結論に達することができる。それは確かに驚くような結論ではあるが、すでに合意された知識以外のものを体現しているものではない。知識の数珠玉はすでに受け入れられている。それを数珠に仕上げるのに必要なのは玉に通す糸だけである。」  進化の構造  春秋社


意識の地図を作るのにケン・ウィルバーは、古今東西の文献から文字通り200以上の研究を参照したと言っています。もちろん、仮説ではありますが、かなり妥当な仮説だと言えそうです。

・発達のホロン階層
様々な文献の初めの合意は意識は発達するということです。
「成長と進化が、進化のいちばん低い段階にあって最も統合されていないものから、最も発展し、かつ統合されているものへと、一連の段階ないしレベルを通して進んでいきます。」

私たちの意識には潜在的な構造が埋め込まれており、発達しながら変容していくように見えるということです。そして単純な構造から複雑な構造へと変容するため、順序が決まっており階層をなしています。分子は原子を含んで進化し、また分子は細胞の部分となるように、意識も低い段階を含みつつ超えて発達します。
発達した意識もまた次の意識構造が浮上してくると部分になります。こうした下位にたいしては全体で、上位にたいしては部分である、全体と部分を同時にもつ存在をホロンと呼びます。そして、すべてはこのホロンでできているといいます。


つまり、意識は生まれてから大人まで、さらにその先までホロン階層的に発達していくということです。重要な点は、含んで超えていくということで、下位の段階を抑圧したり阻害したりすると、上位の意識の安定も悪くなってきます。物質を含みながら生命が創発し、生命を含んで心が発達してきました。心は、物や身体の基盤の上に成り立っていると同時に、物や身体にはない能力を身につけています。また、ホロン階層という見方からすると当然、心は物や身体の全体性であると同時に、心を含んで超えた何かの部分であるという推測ができます。

意識の構造を、潜在的あるいは深層構造と、表層の構造に分けて考えるのがわかりやすいでしょう。深層構造は誰の意識にも埋め込まれており同じです。身体の組織構造(骨の数や、臓器)、イメージや感情、言葉を話す能力などは深層構造です。それらはみんな一緒ですが、それ(身体、言葉)を使って、何をするかはそれぞれみんな違います。このそれぞれの行動や表現の仕方を表層構造と呼びます。これから見ていくのは、深層の構造です。ウィルバーは、9つの構造を取り上げています。表層に比べて、深層構造は通常自覚していません。自覚しなくても生活できるからです。しかし、深層・潜在的な構造についてある程度理解しておくと、人生に対するより深く豊かな見方を獲得でき、生きていく確かな方向性が見えてくるでしょう。

自分の体験や思いに気づきを向けながら読みすすめていただければ、心の変容に役立つことでしょう。そして、実際に実践を始めてほしと思います。ぜひ、ウィルバーの本にも直接トライしてみてください。分厚い本ですが、最初から順々に読みすすめていけば、それほど難しくもありません。

それでは、生まれてから現在までどのような意識構造をたどってきたのかみていきましょう。そして、人間性のさらなる発達に関してかいまみてみることにしましょう。私たちの進化はいったいどこへ向かっているのだろうか?私たちが歩んでいる道はどこへ通じているのだろうか?
「背をのばして、時の矢が未来へ向かって弧を描くのを見れば、そこには確実にある驚異が待っている。」

1.感覚身体的レベル(0歳ー2歳) 物質的自己の誕生
 受胎時の人間は、単一の細胞であったものが、誕生までに感覚、知覚、衝動の各段階を経て発達しそれぞれを内包していきます。子宮の中で胎児は生命の進化をもう一度辿るのです。文字通り私たちは、植物や動物としての体験を経てその能力を身につけて成長していくのです。奇妙かもしれませんが、これは、今この瞬間「私」という存在の一部が植物や動物の存在として生きているということです。

しかし、生まれたばかりの赤ちゃんは、周りの環境と自分を区別することができず埋没しており、いわば物質的な自己と呼ばれます。母親と一体になってやすらいでいるのは大洋感情といいます。ある時点で赤ちゃんは、自分の指を噛むと痛く、ふとんを噛んでも痛くないということに気づき、徐々に環境と身体の違いが分かってきます。このレベルの自己は、環境から独立した身体に自分を根付かせる課題があります。誕生後、5ヶ月から九ヶ月を経ると未分化の状態から個体としての身体的な自己が誕生します。この移行があまりうまくいかないと、自分の身体の境界があやふやなため、将来精神分裂病になる可能性があります。

幼児期の発達に関しては主に発達心理学者ピアジェの研究を参照しています。ピアジェの研究は40年にわたって行ってきた文化横断的な調査を元にしており、現象学的経験的な裏づけがあるものです。

2.前操作期、情動的呪術的レベル(2歳ー4歳)、情動的自己の誕生
 すべてが比較的うまくいけば幼児は身体的な自己に根付きます。しかし、感情的な自己はまだ母親的なものと未分化の状態に存在しており、18ヶ月くらいになると幼児は自分の感情を他の感情と区別することを学び始めます。(二番目の大きな差異化)生命的なつながり、感情的なつながりに埋没していた状態から超越するのです。差異化とは、特定の段階への埋没から離れることにより、成長していくことを示しています。特定の段階から差異化して、その後その段階を統合していくプロセスがあります。差異化しないと成長は止まり、差異化しすぎて統合に失敗すると下の段階を抑圧することになり、病理を起こします。統合がうまくいけば、意識は新たに浮上した深層構造に融合していきます。

この移行がうまくいかないと、マーラーやカーンバーグの研究によればナルシシズムや境界的な症状を起こします。
「幼児はその情動をそのまわりの情動と分離統合しないためまわりの情動的な環境に溺れるか洗い流されてしまう。これが境界症状である。あるいは、全世界を単に自分の感情の拡大とみる。ナルシシズム。」

またこの段階で言語(イメージとシンボル)が発生しますが、イメージと対象を区別することはできません。従って「言葉のおまじない」が多用されます。
「五歳ぐらいまでは、子供は月を自分が動かしているのだと思う。ものとの関係において呪術的な面が働いている。五歳くらいからは、子供は月が自分を追っかけてくると思う。ものとの関係はここではアニミステッックである。こうしてある言葉はある対象に働きかけ、あるジェスチャーはある危険から自分を守る。」

3.後期前操作期、表象的神話的レベル(4歳ー7歳)、概念的自己の誕生
 子供は世界と関わる中で言葉やイメージが自己中心的に世界を支配、創造、制御しているわけではないことに目覚め始めます。こうして呪術的な思考は徐々に薄められていき、万能的な呪術の能力は他者に移行されます。
「自分の魔力はすでに効かなくなっているのだ。たぶん、僕は世界にああしろこうしろとは言えないが、パパ(または神、火山の霊)ならできる。この段階では、自分の欲求を満たすために自然のパターンを奇跡的に変えてくれる神や女神を動かす、儀式や祈りを知ることが大切になる。」

・神話
 世界の古代神話はほとんど、この意識構造から作り出されます。ユングやフロイト、ピアジェの研究によれば、子供は誰に教わることもなくこうした神話を作り出すそうです。つまり、神話の形式とモチーフは人類の集合的な遺産だということです。「世界の偉大な神話は、みんなのなかに、あなたや私の中に、今、存在しているということである。現在、私たちの複合された個体のなかの、身体感覚・情動的・表象的構造によって生み出され、またいつでも生み出されうるものなのです。」

・心の出現と抑圧
 最初はイメージ(7ヶ月ごろ、イメージとはあるものとそれと似たものによって表象する。犬のイメージは犬ににている。)。次にシンボル(2歳ごろ、シンボルとは「ポチ」というふうに個別のものをさす言葉。イメージより難しい作業であり、イメージの後にならないと言葉は現れない。最初のシンボルはだいたい「いや」と言う言葉。)。次に、概念(3歳ごろ、概念とは物事の集合であり、「犬」という概念は存在しうるあらゆる犬を意味しており、「ポチ」だけをあらわしているのではない。さらに難しい作業)。

「いやという言葉は心的な超越の最初の形式である。いやという言葉によって初めて、子供は自分の身体的な衝動ないし他者の望みに従って動くことを拒否するのである。初めて、子供は単に生態的に埋め込まれている状態を超越して、身体的な欲望、排泄、衝動などにコントロールを及ぼそうとする。同時に自己を他者から分離して個体化しはじめるのである。(3番目の重要な差異化)」

しかし「いや」も行き過ぎる可能性がある。差異化するのはいいが、言葉による禁止が極端になり身体感覚、生理、自然環境を抑圧してしまう。この極端な「いや、だめ」を専門的に精神神経症といます。ここでウィルバーは、神経症(わたしたちの誰もが少なからずある)の本質と自然環境の問題についてとても興味深い考察をしているので、長くなりますがそのまま引用します。

「いいかえれば、あらゆる神経症は自然環境的危機のミニチュア版だと考えられる。それは複合された個体(私たち)のなかに、有機的な生命、情動的性的な生命、生物的な生命を包括することへの拒否である。それは,私たちのルーツ、基礎を否定することである。この意味で神経症は、心圏(人間社会)による生物圏(自然、生物)への攻撃であり、わたしたち自身の有機的に構成されたホロンの一部を絶滅させようとする試みである。

しかし、こうした生物圏の存在は、単に消滅されることはなく、抑圧されるだけであり、装いを変えた形で戻ってくる。これが神経症状である。不安、憂鬱、強迫現象、これらの神経症状は無視された生物圏(身体感覚、衝動)の苦痛に満ちた症状である。

意識がその抑圧を緩め、身体に再接触し、それと親和関係を結ぶことによつてのみ、神経症状が消滅し、あるいは癒される。そして身体は本来の姿で存在でき、新たに発生した心と統合することができる。これが、影の発見で、影とは身体・情動にほかならない。

現在、世界を覆っている環境危機は、厳密に言えば、世界的な集団的神経症である。事実として、私たちの共通の祖先の抑圧、疎外、否定であり、すべての生命に関連して存在している自分たちを否定することである。」

この箇所はきわめて重要に思われます。自分の感情、身体と親しくする、言い分を聞くことが、まず求められるため、ボディーワーク、気功、ヨガなどの身体からのアプローチが現在緊急に必要になってきているのです。このワークは、自分を癒すに留まらず環境問題の原因を根本的に癒す唯一のアプローチです。つまり個人の内面の問題を解決しないかぎり、外側の環境運動をしても根本的な解決にはならないということです。

4.具体操作期、規則的・役割的段階、社会中心的(6歳ー13歳)、役割的自己の誕生
 小学生に入りたての子供は、身体の衝動やイメージ、概念を操作することができるようになり、規則に従うことを学びはじめます。自分中心に考えることを超えて他者の役割を引き受けることを学ばなければならないのです。ピアジェは成長とは自己中心性の減少であると言っています。つまりこの段階で子供の道徳姿勢は、自分だけよければいいという姿勢から、周りの人のことも考えるようになります。「人の身になってみる」能力がつき、意識は自己から抜け出し他者の中に入り始めます。これは驚くべき超越です。

・ピアジェの有名な実験
「ボールの片側半分を赤く、もう半分を緑色に塗り、自分と子供の間にそのボールを置いて、その子供に、「坊やは何色が見える?」と「おじさんは何色を見ているかな?」という二つの質問をすると、前操作期の子供は二つの質問に同じ答えをするでしょう。つまり子供が緑色の側を見ていれば、自分が緑を見ていると正しく答えるでしょうが、彼はあなたも緑を見ていると言うでしょう。

彼はあなたの身になって考えることができない、またはあなたの目を通して世界を見ることができないわけです。子供はまだ、依然として非常に自己中心的で、前慣習的な自分の展望に閉じ込められているのです。

しかし、具体的操作期の子供なら「ぼくは緑をあなたは赤を見ている」と正しく言うでしょう。この段階の子供は他人の役割・立場に立つことができるのです。そしてこれは、世界中心的な展望を持ちうる境地への途上の大きなステップです。子供はまだ十分そこに達したわけではありませんが、正しい方向に歩み続けています。なぜなら、彼は自分の見方が世界で唯一の見方ではないことがわかり始めているからです。」

・脚本の病理
 意識の成長にともない全く新たな障害が現れてきます。社会の一員となることは、先行する段階に較べて大きな自律性と可能性が生まれますが、この段階特有の限界に閉じ込められることにもなります。子供は家族や学校のメンバーになるべく、規則や役割を教えられますが、他の社会の規範を参照することができないため、この役割にはまりこんでしまうのです。教えられたことが正しいか間違っているかに関係なく、この段階の自己は、メンバーであることで自分を維持しているので
信じる以外に選択の余地がないのです。マスローのいう所属欲求の段階です。

しかし、こうして教えられたことの中には、あまり現状と合わない、間違ったことも含まれており、(私はだめな人間だ、役に立たない、満足にできない)といった言葉、脚本を素直に信じてしまいます。この時に埋め込まれた信念は、後々まで尾を引き影響を及ぼす可能性もあります。何かをやるにも、すぐに自分にはどうせできないと判断してしまう裏には、このような間違った信念、思い込み、脚本があるかもしれません。

これは誰にでも少なからずあるように思えます。自分についての考えについて一度点検してみるのもいいかもしれません。偽りの脚本を発掘し、もっと成熟した理性、もっと正確な情報の光の下にさらすことによって「脚本を書き換える」ことをしてみるのです。うつの症状などはまさにこういった偽りの信念があたかも事実かのように自分に対して言い続けているために起こります。ポイントは「違ったふうに考えなさい。そうすれば違ったふうに感じはじめることだろう。」ということです。

5.形式操作期、成熟した自我、合理性、世界中心的(10歳ー)
 小学生の高学年になってくると、意識はまたもや大きな飛躍をするべく突き動かされます。具体操作的思考を超えて、形式操作的思考が現れてくるのです。

・ピアジェの実験
 「子供に透明な液体入りの三つのコップを与え、それを混合させると黄色ができるので黄色を作るように求めるのです。具体操作段階の子供は、その液体をでたらめに一緒に混ぜ合わせるだけでしょう。正しい組み合わせを偶然発見するか、だめだとあきらめるまで続けるでしょう。具体的なやり方でやらなければなりません。

形式的操作段階の若者は、コップAをB、次にAをC、それからBをCとなど試してみなければならないという一般的概念を思い描くでしょう。言いかえると、彼らは心の中に形式的操作、すべての可能な組み合わせを試してみなければならないことを教える内的な枠組みを持っているわけです。」

合理性、理性は、今の私たちからみるとあたりまえで大した発達ではなく、むしろ環境危機や現代の問題(能率ばかり重視する)を起こす元凶のように思われることもあります。しかし、ウィルバーは理性の本来の力を指摘し、病理的な理性と正常な理性を区別すること、前者を正そうとし後者を祝福することが肝心だといいます。

「形式操作的意識は、具体的な世界の他に心の中に別の可能な世界を想像する事ができるようになるのです。「何々ならどうだろう?」「まるで何々かのように」
ということを初めて把握でき、そのことが本人を真の夢想家のすばらしい世界に先導するのです。あらゆる種類の理想主義的な可能性が開け、本人の意識はまだないものを夢想することができ、そして未来の理想的な可能性を思い描いて、その夢に従って世界を変えるために働くことができるようになります。

同様に、思考について考えることは真の内省が可能になるということです。内面世界が初めて心の目の前に開けてきます。心理的空間が、新しいそして刺激的な領域になるのです。内なるヴィジョンが頭のなかで踊り、そして初めてそれは外部の自然からでも、神話的な神からでも、慣習的な他人からでもなく、なにか不思議な、奇跡的な仕方で、内なる声から来るのです。理性とは可能性の空間であり、見えざる世界への偉大な関門、不可視の世界の始まりにほかならない。」

また形式操作的思考は、思考について考えることができるので、規則役割的段階で反省なしにとりいれた脚本を吟味することができます。自分の社会、仲間にとっていいことだけでなく、すべての社会、仲間にとって何が正しく公正かを知ろうとします。社会中心的、慣習的な道徳から世界中心的、後慣習的な道徳に発達したのです。

・形式操作的=生態的(エコロジカル)
 人間が持つ合理性が環境破壊を促進するほど病理的になることも事実ですが、形式操作能力は、ピアジェの実験でも確認された通り、事物が互いに結ぶことのできる可能な関係を知覚の中に保持することができるので、元々相互関係を把握すると言う意味で、最初のエコロジカルな知覚のモードです。「この段階の子供は、彼らを取り巻く環境の相互作用的な変化に関心を持つことができる。こうして初めて、ある様相の変化が、他の様相とのバランスの上に立っているシステム全体の変化をもたらすという生態的なシステムを概念化することができる。」コーワン

人々や環境とのつながりに敏感になった理性は成熟するにつれて、自分たちの仲間だけ良ければいいという姿勢から離れ、徐々に世界中心的な姿勢へと重心を移行させます。馴れ合いやしきたりを理解しつつ、自律した個人として物事を考えることを強いられるのです。

「これは非常に困難な変容です!が、それがうまくいくと、私たちは最初の真に普遍的、グローバル、世界中心的な姿勢を持つのです。意識発達と進化のすべてにおいてまさに初めて、グローバルな展望を持つのです。なんと長い旅でしょう!なんと岩の多い道でしょう!グローバルのこの大切な道は。

そしてまさに同じく重要なことは、すべてのさらなる、より高い発達は、こうした世界中心的な理性を土台としているということです。それは不可逆的なシフトです。
いったんグローバルな展望で世界を見ると、もうそれを止めることはできない。けっして後戻りはできないのです。」

しかし、またもや新たな段階には新たな病理の可能性が生まれます。この段階の個人は、自分を理解するのに社会から与えられた役割に依存することをしないため、個人の内的な精神的な力を頼りにします。ここにおいて初めて「私とはどういう存在で、何をやりたいのか」が切迫した質問になってきます。マズローのいう自己尊厳欲求が心に現れてきたのです。

敷かれたレールを順応的に歩む生き方から、自分独自の生き方を模索しはじめるのです。この苦痛に満ちた時期を、エリクソンはアイデンティティ(同一性)の危機と呼んでいます。これは、社会における適切な役割を発見するという脚本の書き換えではなく、自己の発見の問題になります。ほんとうにやりたいことは何かを、深く心をみつめていく内省によって発見するしか道は開かれません。
日本社会は経済も発展し、個人の個性を重視する教育が奨励される中、私たちには集団的なアイデンティティの危機が訪れようとしているのです。

6、ヴィジョン・ロジック  ケンタウロスの心身統合的 普遍的・世界中心的 、実存的自己の誕生
合理性を客観的に見つめる能力が、合理性を超え始めます。形式的操作的な意識は、論理的に物事を把握し対処する高度な機能ですが、まだどちらかと言えば、二者択一的な、あれかこれというふうに、統合性に欠けるところがあります。合理的論理的な思考法だけでは、全体を見るということがなかなかできず、細かい議論に終始しがちになり閉塞状態になってしまいます。木をみて森を見ないのです。現代社会のいきづまりは、まさにこの合理的論理的な思考の限界といえるのではないでしょうか。環境汚染、競争社会におけるストレス、利益至上主義など、負の側面が目立って来たようです。

このような合理的な意識が生み出した問題は、合理的な意識が解決しようとしても無理なことは当然です。問題を複雑にするだけです。問題の解決はいつもそうですが、同じレベルではなく一つ上の段階から考慮したときに解決されるのです。現代の問題を解決するには、私たちは次のレベルへと歩を進めなければならないのです。西洋の正統的な心理学は、合理性の次の段階として、統合的意識をおいており、最高の段階としています。ウィルバーは、統合的意識をヴィジョン・ロジックといい、合理的に考えた個々の意見を合計して相互作用のネットワークの中に位置付けることのできる能力と言っています。

ヴィジョン・ロジックは、科学の分野ではシステム理論や複雑系の科学を生み出し、すべての物は個別にバラバラにあるのではなく、相互浸透しあっているとし、全体性に目を向けるようになってきました。またヴィジョン・ロジックの統合的な力は、形式的操作的意識では排除されがちな、低い段階の心や生命、身体を自己の中に含めることができるようになります。ブロートンは、この段階では「心と身体は共に統合された自己の経験である」と説明しています。そのため、ウィルバーは、この段階の自己をケンタウロス(ギリシャ神話の中で人間と動物が一体化した生き物)と呼んでいます。

ヴィジョン・ロジックを持ったケンタウロス的な自己において初めて、現代の問題(合理性が作り出した問題)、環境危機、ストレス、貧富の差、宗教と科学の統合、宗教間の争いなどの、解決の糸口が見出されるのです。統合的な論理と言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、今まで意識の段階をたどってきた時に使ってきたのがヴィジョン・ロジックなのです。それぞれの段階を全体の中に位置付けて見ることです。従ってここまで読んでこられた方は、間違いなくヴィジョン・ロジックに達しています。常にそのように見れるかどうかはわかりませんが、すでに持っているのです。

この段階では以下のことに気づきはじめます。
「まず第一に、自己はこの段階で心と身体の両者に経験として気づくのです。つまり、観察する自己は心と身体を超えはじめつつあり、それゆえ意識における客体として、経験として、それらに気づくことができるのです。それはたんに心が世界を見つめているのではありません。観察する自己が心と世界の両者を見つめているのです。そして第二に、まさに観察する自己が心と身体を超えはじめているために、まさにその理由のために心と身体を統合し始めることができるのです。」

自分の意見や立場に同一化していないので、他者の意見を冷静に見ることができ、また他者そのものと意見を区別することができるために、他者に対して心を開くことができるのです。発達とは、自己中心性の減少ですが、ここにおいて自己はさらに全体に対して開かれたといえます。そのため、心理面でも、自分の性格や意見、役割に関して非難されても、それほど同一化していないので、あまり苦しむことはありません。私たちが、縛られるのは同一化したものによってです。

ケンタウロス的な自己を誕生させるには、身体と心のつながりを回復させるメソッドが必要になります。心理学では、ライヒ派の流れを汲むローエンのバイオエナジェッティックスやバイオシンセシス、センサリーアウエアネス、アレクサンダーテクニークなど、様々なサイコソマティック(精神身体的)セラピーが開発されています。東洋の伝統からは、ハタヨガや気功、武術などがこのレベルの鍛錬にいいでしょう。頭の考えを少し休ませて、身体の動きや、自律的なものにゆだねるという姿勢が、ケンタウロス的な意識を育てます。

このようなワークは、すぐにエコロジー感覚を養い、環境問題に理屈で判断するのではなく、まさに肌で感じるというようになり、切羽つまったものとして受けとめるようになります。グラウンディングなどのワークを行うと、地球とのつながりを感覚的に感じるため、今まで以上に環境に対して責任を持つようになることでしょう。合理的な意識が勝ち取った世界中心的な道徳が、ケンタウロス的自己により実際の行動、現実としてあらわれてくることになるでしょう。

ケンタウロス的な自己は、マスローの欲求の階層論では、5番目の自己実現欲求の段階と言えます。1から4までは基本的な欲求で、社会で生活していくために必要なことを満たしていくことに向けられました。しかし、人間はそれだけでは満足せず、人の評価や物質的な豊かさ以外に、本来の自分のあり方というものを求め始めます。マスローの研究はこの自己実現をしている人のデータを集めることに向けられていました。

ヴィジョン・ロジックは、単に相対的な視点を重視して、すべての見解が正しく、平等であるとはみません。すべての意見を尊重しますが、その中で、より妥当なもの、より良い意見を見出していこうとする階層的な認識に立っています。しかし、この階層は、権威主義的で上が下を抑圧するような封建的な階層ではなく、それぞれの段階がその段階においては有効であり、必要であるとするものです。つまり、階層にも、良い階層と悪い階層があるということです。

今までの要素が、この段階に生きるものにとっての、健全な側面です。しかし、発達は今までになかった新たな病理の可能性を自己にもたらします。社会においてある程度成功し、ほどほどの充足感ができ、時間に余裕ができてくると、人は、肩書きや役割をはなれて、ではいったい自分とは何なのかと不安になるようです。そして、この世界を充分に味わい尽くした自己は、自らの死すべき運命と自分の有限性にいやおうなく向き合わされるのです。通常は、このような不安が起こっても、日常の忙しさの中で忘れていきますが、この段階の自己の特徴は、もはやすべての慣習的な慰め(社会的なつきあいや目標達成のための努力や趣味)を受け入れないと言うことです。自己はささいなことで自分を落ち着かせることができないのです。より本来的、実存的な自己の探究がはじまるのです。

ヴィジョン・ロジックは、すべての可能性を心の目の前に積み上げ、全体的な視野を手にします。「するとやがてそれは陰気な結論、すなわち個人の人生など宇宙の虚空の中の短い火花のようなものだという結論にたどりつく。すべてがどれほど素晴らしくても、私たちはいずれ死ぬ。恐れは、ハイデッガーが言ったように実存的存在の誠実な反応である。恐れは、私たちを自己忘却から自己現前へと連れ戻す。恐れは、私の身体、自我、心など全体を捕らえるのだ。私が自己の人生を誠実に見つめれば、私はその終末、私の死を見る。そして私の「ほかのいろいろな自己」私の自我はすべて、不誠実さによって、孤独な死を意識することを避けることによって、やっと維持されていることがわかる。」

ケンタウロスはこの幸福な面と不幸な面の両方を内に抱え、真剣に向き合っていくことが課題になります。人は死を顔をそむけず心の奥深くで自覚すると、生はまた一段と新鮮になり、否定的なものを含んだ上での、より肯定的な人生に対する姿勢を獲得します。実存主義者たちは、こうした真正の自己の特徴をあざやかに分析しました。いずれ死ぬのならこの人生に何の意味があるのか?といった人生の意味への関心が実存的セラピーの中心になります。フランクルなどの研究が役立つところです。

ケンタウロス的な自己は、人生を楽しみますが、しばしばその顔は微笑んでいません。「それは、個人的な領域が提供できるものは全部味わい尽くし、それでも満足できないのです。世界の魅力がつまらなくなってきたのです。なにももう満足を与えてくれない。もうなにも追い求める価値がない。人がこうした報いを得そこなったからではなく、まさに人がそれらを立派に成し遂げ、すべてを味わい、そしてそのすべてに何かが欠けていることを見出したからなのです。従って当然ながら、この魂はあまり微笑ません。これは、すべての慰めがつまらなくなった魂です。世界は、まさにその最大の勝利の瞬間に味気なくなったのです。これは、すべての願望が希薄で、弱くなり、活気がなくなった魂です。これは、まともに実存に直面して、それにすっかりいやになっている魂です。これは、パーソナル(個的)なものがすっかり味気なくなった魂です。言いかえれば、トランスパーソナル(超個)なものの間際にいる魂なのです。」

西洋の心理学、実存主義、合理的科学、つまり現代の主流の考え方では、この段階が人間の到達する最高のレベルであるとします。これを超えた段階について語ろうとするものなら、すべて迷信として退けられてしまいます。従って、現代の常識的な考えを突き詰めていくと、悲観的な結論に陥ってしまうのです。つまり「人生の意味とは何か?」について納得のいく答えができないまま、真摯に向き合って生きていくことができるすべてなのです。完全な無条件の幸せはありえないのです。それによって、人生は結局は無意味だというニヒリズムになる可能性もあり、この段階の病理的側面の一部です。普通はそこまでは考えず、今だけよければいいと快楽主義に走って人生を過ごすか、昔はよかったと懐かしんで自分を納得させるかです。

かなりきつく、冷酷ないい方をしましたが、この現代の社会が提供するもの、今の自分について徹底的に失望することが、新たな探究の計り知れない原動力になるためです。絶望することにより初めて、過去の重荷を降ろし、新たなるものを学び、迎え入れる準備が整うのです。

果たして私たちの発達はここで終わってしまうのでしょうか?この質問に対して、世界中の霊的な伝統の師たち、神秘家、聖者、覚者たちは、断固として「NO」といいます。そこで私たちは、西洋の心理学に別れを告げ、何千年にもわたって行ってきた霊的伝統の体験、実践方法に目を向けなければならないのです。霊的伝統には、意識が個を超えて発達するという体験的データが豊富にあるのです。

・霊的な知識の妥当性
霊的な領域は肉眼や顕微鏡で見ることもできず、対話的に解釈することもできないので、科学的な妥当性がないとされ、単なる信仰として片付けられてきました。霊的な伝統の範囲は広いので単なる信仰という側面も多いですが、核心にある考え方は、信仰よりはむしろ実験に基づいています。知識が妥当かどうかを判断するのは、実験に基づいたデータで検証するシステムがなければなりません。

知識の妥当性には三つの要素が要ります。
一つ目は、指示です。「これこれのことを知りたかったら、これをせよ」という形をとります。細胞の様子を知りたかったら顕微鏡をのぞく、外で雨が降っているか知りたかったら窓辺に行って空を見上げる。といったようなことです。
二つ目は、理解、解明です。顕微鏡をのぞいて理解する、雨が降っているのを知る、という直接な体験によって得られたデータです。
三つ目は、確認です。細胞や雨を見たが、目が悪かったために、間違っているかもしれない。そこで、そのデータを、初めの二つのステップを終えた人と照らし合わせて比較し、確認し、必要なら捨ててもう一度やり直すのです。
霊的な伝統の核心にある知識もこの三つのプロセスを経て導き出したものなので、科学的な知識の妥当性があると言えます。つまり、科学とは物理や自然だけでなく、心の科学と、霊的な科学があるのです。

霊的伝統は宗教という形で広まりましたが、宗教を各宗派で分けるのではなく、宗派の中でのレベルで分けることが重要です。どのような宗教も大きく分けて二つ、顕教と密教、あるいは神秘主義に分けられ、顕教が主に信仰を担当し大衆的なものであるのとは逆に、密教は宗教の核心にあたり実践、修行といった実験に基づいているといえます。ウィルバーが意識のさらなる発達の研究において参照しようとしているのは、99%が占める顕教ではなく、密教・神秘主義・秘境的宗教の方であるのです。顕教を単に宗教と呼び、密教を霊性と呼ぶ場合もあります。

霊的知識の妥当性の要素はこうなります。まず、霊的な領域に関して知りたければ、師から言われた実践をしなければなりません。そして、その実践の結果、何らかの体験が起こり、霊的領域を把握します。しかし、その体験は幻覚かもしれません。従って、最後の要素、同じ実践をして体験をした人たちと検討してみるのです。霊的伝統では、サンガと呼ばれる修行仲間あるいは師によって確認という手続きを行います。こうして得た知識について、同じ実賎をしていない人が判断することはできません。そのような人が何を言おうがその発言は無視していいことになります。

7.サイキック(心霊段階) トランスパーソナル・超意識・魂の領域・自然神秘主義・ヨーギの道
・どこで心が超えられるのか?
いよいよ意識の発達は個的な自己を超える、つまりトランスパーソナルな段階にさしかかってきました。それでは、私たちはどの時点で心を超えていくのでしょうか?実はケンタウロスの自己の時点ですでに意識は、心と身体の両方を一般的な意味で観察・経験できるので、心と身体を重要な点で越え始めているのです。あなた自身、今ここで、客体としての自己に気づくことができます。個としての自我ないし人格を観察することができます。あなたは自分自身をおおよそ知覚することができるのです。

しかし、そのとき観察を行っているのは誰か。誰があなたの個としての自己を観察しているのか。あなたの内部の観察者は、あなたの内部の分離した人格を超越し、もはや個体としての心身にのみとりつかれていない広大な知覚の領域を開示します。伝統的には魂と呼ばれてきました。魂は個人を誉めたたえたり、罰を与えたりするのではなく、孤独な自己が感じる移ろいやすい喜びや、人知れぬ悲しみに心を奪われたりするものではないのです。人格を観察するものは、それだけ自己、人格から自由なのです。この「観察する自己」がケンタウロスでは背景としてわずかに感じられたのが、サイキック段階では前面に出てくるのです。霊的な発達とはこの「観察する自己」がますます深く、純粋になっていく過程に他なりません。

「瞑想的な伝統は一連の意識の実験に基づいて探究します。この「観察する自己」をその源まで追跡したらどうなるか?内側を探究し、意識そのものの源へとより深く深く押し入ったらどうなるか?反復可能な、再現可能な意識の実験としてなにを見出すか?神秘家たちが異口同音に答えるには、「観察する自己」はそれ自身の源、すなわち霊それ自体、聖なるものそれ自体を明らかにし、それは全宇宙が依って立つ究極の基底であるといいます。まさにあなたの「自己」が「宇宙」全体の「自己」(顕現した全世界よりさらに輝く最高のアイデンティティ、個別の自己の結び目をほどき、それをみごとに葬り去る最高のアイデンティティ)と交わるのです。

こうして、物質から身体、身体から心、心から霊へ。それぞれの場合に意識または観察する自己は低次の、浅い次元とのアイデンティティを脱し、霊(スピリット)そのものの内なるそれ自身の究極的基底に通ずるまで、より深く、より高く、より広い機会に通じていくのです。」

瞑想的伝統にとってケンタウロスは意識の終わりなのではなく、始まりにすぎないのです。それにしても神秘家たちが見出した答えは聞いているだけでも、心躍らせるものではありませんか?しかし実際に意識がそこまで成長し体験するためには、実験を試みなければなりません。霊的な段階においては想像したり考えたりしても何の意味もありません。そのため瞑想的伝統では誰でもがその気になれば従えるパラダイム、実践の体系を残しているのです。ウィルバーは古今東西の伝統が残したそうした地図を取り上げて、自分でも多くの実践をしながら比較参照しています。そうして高次の様々な意識のレベルのかなり包括的で複合的な地図となる「マスターテンプレート」を創り出そうとしているのです。それは、私たちすべてに潜在的可能性として存在しているが、しかし実際の顕現と成長を待っている、高次の基本的構造なのです。

霊的伝統はそれぞれ瞑想という大雑把に言えば内面に意識を向ける技法を使って発達を促します。ここで、意識の成長とは、内面に向かうことであり、それにより拡大された自覚を獲得し、外に働きかけることができるのだとする、ウィルバーの説明を見てみましょう。
「発達心理学によれば、成長と発達はつねに増幅する内面化をともなうという。始めは逆説的に聞こえるかもしれないが、個人の内面化が進めば、その意識はさらに自己中心的なものから離れていくのである。従ってすべての発達心理学の諸派において、発達の進行=内面化の増大=ナルシシズム(自己中心性)の減少=自律性の増大という公式が事実とされている理由を理解する必要がある。

人は内面に遡行できるようになればなるほど、あるいは自己を内省し、省察できるようになればなるほど、ますます自己から離れ、その視点の限界を超え,自己中心性から脱却していくことが、可能になるのである。瞑想とはさらなる内面への遡行であり、こうしてさらなる超越、新しい、高次のアイデンティティの発見へと結びつく。従って瞑想は、自己中心性に対する最強の解毒剤なのである。また、ピアジェの自己中心性という概念のポイントは、「自己中心性は真実を歪める」ということにある。自己中心性の解毒剤としての瞑想は、従って真実を開示する能力の増大を意味する。

過去から今まで、瞑想のような修行は隠遁的で、現実逃避的であると非難されてきた。現実的な問題から目を背けるものであると。事実はまさにその逆なのである。内的な自閉どころか、瞑想に限らず、霊的な発達全体は、成長のプロセスの単純で自然な進行なのである。成長においてはすべての内部への遡行は同時により大きな包容への超越なのである。」

現在の研究の状態に基づけば霊的段階のはじめの構造が心霊段階になります。この段階は先ほど見たように「観察する自己」がはっきりと現れてきた段階で、もう個的な自己、ケンタウロスにだけ限定されているとは感じない意識の状態です。

「心霊レベルでは、人は一時的に個別の自己感覚を解消し、世界と一体化したアイデンティティを見出すかもしれません。いわゆる自然神秘主義です。気持ちのいい自然の散歩をし、意識がリラックスし、開放的になって、美しい山を見つめます。すると突然見ている人はいなくなり、ただ山だけがある。そしてあなたは山なのです。あなたはここにいて、向こうの山を見つめているのではありません。ただ、山だけがあり、そしてそれがそれ自身を見ているように思われる、またはあなたがそれを内側から見ているように思われる。山はあなた自身の皮膚よりもあなたの近くにあるのです。

他の言い方をすれば、主体と客体との間、あなたと「向こうの」全自然界との間に分離がないのです。内部と外部、それらはもはやなんの意味も持たないのです。あなたはそれでも、どこで自分の身体が終わり、どこで環境が始まるかを言うことができます。これは精神病的無二元性ではないのです。それは、「生態・認識的自己」と呼べるような、この段階でのあなた自身のより高い自己なのです。」

ケンタウロスは全人類を視野に入れた世界中心的な道徳感覚を獲得しましたが、心霊的自己はすべての存在(生物を含めたすべての生き物)にまで拡大するのです。あるいは、ケンタウロスは全世界について考えることができましたが、心霊的自己は全世界と実際に一体化する体験をするといえます。この発達は唐突な飛躍に見えますが、自己中心から社会中心、世界中心へと、越えて含むことを繰り返してきた進化の過程の単純かつ自然な継続なのです。

「それぞれの出現は、外部世界のより多くが、実際は内部またはまさにその存在の部分であることを見出す脱中心化、超越なのです。分子がある朝目を覚ますと、原子が自身の内側にあること、まさにその存在自体のなかに折りたたまれていることがわかったのです。そして細胞がある朝目を覚ますと、分子が実際にその内部に、まさにその存在の部分としてあったことがわかったのです。で、あなたがある朝目を覚ますと、自然があなたの一部、文字通りあなたの存在の内部にあることを知るかもしれません。あなたが自然の一部なのではなくて、自然があなたの一部なのです。で、まさにそういう理由で、あなたは自然を、自分の肺や自分の腎臓を扱うのと同様に扱うのです。自発的な環境倫理があなたの心から波のように押し寄せ、そしてあなたは二度とふたたび今までと同じように川、木の葉、シカ、コマドリを見ることはなくなるでしょう。」

意識の発達は、世界についての見方も変わり、新たな現実、新たな対象が自己の前に現れてきます。物質の世界(物質圏)を含んではいるがそれを越えた現実を植物は生きているわけです。そして植物には見えていない世界を動物は見ており、人間は動物の世界を含んで越えた領域に住んでいます。そして、子供には見えない、複雑な概念や社会組織、人間関係をケンタウロス的な自己は見ているのです。このように意識がトランスパーソナルに発達すると、ケンタウロス的な自己には見えてない世界が現れてくるのです。いわゆる心霊的現象、超常現象が起こるのもこの段階においてです。

「こうした現象のいくつかは、身体のエネルギー的覚醒(クンダリーニ・エネルギーの覚醒、微細エネルギー、経絡およびチャクラの心霊的解剖学の開示)、シャーマン的ヴィジョンと内的な旅、圧倒的な神秘感情(ヌミノーゼ)、過去の深いトラウマ、出生外傷の再体験、臨死体験、自然との同一化(植物、動物との同一化)などです。」

このような現象を報告する人は結構いますが、一般的に幻覚かなにかだろうと思われています。心霊的現象が実際に存在しているとどのようにしてわかるのでしょうか?
「観察する自己がケンタウロスを超え始めるにつれて、より深いまたはより高い意識の次元が出現し、そこで新しい世界観・世界空間がはっきり見えてきます。そうしたリストにある項目すべては、この新しい心霊的世界空間では直接知覚できるのです。こうした項目は、物質的世界空間では岩が現実的であり、また心的世界空間では概念が現実的であるように、心霊的世界空間では現実的なのです。もし認識がこうした心霊的レベルに目覚めれば、または発達すれば、感覚的世界で岩を、心的世界でイメージを知覚するのと同じくらい簡単に、こうした新しい対象を容易に知覚するのです。それらはただ意識に対して与えられ、ただ現れるのであり、ですからそれが本当かどうかを見抜くために多くの時間を費やす必要はないのです。もちろん、心霊的な認識が覚醒していなければ、どれも見ることはないでしょう。ちょうど岩が心的イメージを見ることができないように。」

子供が成長し、合理的理性的認識が身につけば,子供には想像すら出来ない可能性が生まれるわけです。理性的世界空間では、文学、数学、科学、芸術、スポーツを極める、道徳、恋愛、理想、結婚、仕事など、あらゆる分野において全く新しい現実を体験するわけです。それと同じように、心霊的レベルには、そのなかでおびただしい数の異なった現象が起こりうる広い空間、世界空間があるわけです。しかし、世界空間があるからといって心霊的レベルに至れば必ず、上に記した超常現象を経験するということではありません。それは、理性的レベルの人がすべて運動能力が発達しており、微分積分ができるというわけではないのと同じです。単に超常現象が起こるとするなら、心霊的世界空間においてであるということです。それに、超常現象はトランスパーソナルな発達、意識の成長においてはそれほど本質的でもないし、重要でもないとされています。

8、サトル(微細)段階、元型的レベル、神性神秘主義、聖者の道
サイキック段階は、霊的な発達の第一段階で、粗大な領域(私たちが通常の意識で認識している世界)からトランスパーソナルな領域への過渡期に当たります。そしてこの微細段階からは完全に、日常的な世界を超越し、全く通常の意識状態では認識することができない領域に入っていきます。意識が変われば、異なった世界、現実が現れてくるのです。ウィルバーは、霊的な伝統が示すこの領域の主だった特徴をあげています。私の認識では手におえない領域であるので、ここから先は引用と私の推測で述べます。ウィルバー自身は体験から語っているのでご心配なく。

「微細(サトル)とは、ようするに粗い、通常の、目覚めている意識より微細なプロセスのことです。これらは、内面的な光明と音、元型的形態とパターン、きわめて微妙な至福の流れと認識(シャブダ、ナーダ)、拡大する愛と慈悲心の感動状態、並びに、宇宙的恐怖、宇宙的悪、宇宙的戦慄としか呼べないより微細な病理的な状態を含んでいます。このタイプの神秘主義を私たちは神性神秘主義と呼んでいます。なぜならそれはあなた自身の元型的形態、神または女神との結合、サグナ(属性ある)ブラフマン、サヴィカルパ・サマーデイ(イメージを伴った三昧)の状態を含んでいるからです。これは単なる自然神秘主義ではなく、自然的な世界との結合ではなく、自然領域を含んでいるが越えている、より微細な次元、内なる至福身とのより深い結合なのです。自然神秘主義は神性神秘主義に道を譲るのです。」

微細領域とは、私たちの通常の世界以外のどこか他にあるというわけではありません。今ここにある現実をより深く見た、あるいは純粋に概念を通さず見た場合に見えてくるものであるのでしょう。このような高次の構造はすべての人間の心の深層に埋め込まれており、潜在能力として存在しています。こうした深い潜在能力が展開する中で、それぞれの文化や社会にかたどられて表現されます。
「人が強烈な内面的光明、微細レベルの光明を持つ(たぶん臨死体験)場合。キリスト教徒はそれをキリストまたは天使、聖者として見るかもしれないし、仏教徒はサンボガカーヤ(報身)または仏陀の至福身として見るかもしれないし、ユング派はそれを「セルフ(自己)」の元型的体験として見るかもしれません。」

それでは、内面的光明、元型、ヴィジョンといった微細領域で見る形、パターンとは一体何を意味しているのでしょうか?
「西洋の新プラトン派から東洋のヴェーダーンタ、大乗と三身(応身、報身、法身)の教えの伝統まで、真の元型は顕現(日常世界)のすべてが依拠している微細な種子形態です。深い瞑想的気づきの状態で、人は全コスモス(宇宙)がまっすぐに「空」(仏教でいう悟り、究極の真実、)から、原初的な「純粋」からダルマカーヤ(法身)から現れてくることを理解しはじめ、そしてこの「空」から現れる最初の形態が、すべてのより低次の形態が存在するために依拠している基本形態なのです。「光」−低次の光すべてはその青白い影である光ーがあり、「至福」−低次の喜びすべてはその貧血ぎみの写しである至福ーがあり、「意識」−低次の認識すべてはその反映である意識ーがあり、原初的な「音」−低次の音すべてはそのかそぼいこだまである音ーがあります。

このような体験を確認するためには、あなたは瞑想的修行を取り上げて、自分で実験してみなければなりません。こうした元型は瞑想体験であり、そしてあなたは実験を行わずにこうした元型を理解することはできません。それらは、合理的世界空間に存在する概念ではありません。それらは、微細世界空間に存在する瞑想的現象なのです。そこで、この実験はこうした元型的データを開示しますから、それからあなたはそれがなにを意味するのかの解釈を自分でできるのです。そしてなんといっても最も一般的に受け入れられている解釈は、あなたが全顕現世界の基本的形態と基底を見つめているというものです。あなたは直接「聖なるものの顔」に見入っているのです。」

いきなり聖なるものとか空という言葉がでてきて、戸惑うかもしれませんが、ウィルバーに言わせれば、内面へと向かい超越を繰り返してきた意識の発達の自然な到達ということです。心身を超越した魂は、微細段階の頂点において聖なるもの、神、尊格と合一します。あるいはその中へと失われていきます。しかし、霊的伝統によれば神性との一体化が意識発達のゴールではありません。魂と神は、もともとそこから現れてきた基盤、空性、形なきものへと帰っていくのです。こうして意識発達の頂点であり、基盤でもある元因段階へと入っていきます。

9、元因(コーザル)段階、無形神秘主義、賢者の道
「元因段階では、魂と神はそのもともとのアイデンティティである至高の実在の中へ超越していく。至高の実在とは、無形の知覚、純粋意識、あるいは純粋な自己としての純粋なスピリットである。この純粋な無形のスピリットは、すべての顕現の源泉であり、目標である。従ってこれが元因(すべての原因の元となる)なのである。

特定の種類の瞑想として、もしあなたが観察する自己、観照者を、純粋な空の中のまさにその源までたどれば、いかなる対象も少しも意識に起こりません。これは独立した、確認可能な気づきの状態です。すなわち、非顕現の没入または停止、ニルヴィカルパ・サマーディ、ジュニャーナ・サマーディ、アイン(目を意味するユダヤ神秘主義の言葉)、忘却、ニロード、古典的なニルヴァーナなど様々な名で知られているものです。これが、しばしば夢のない眠りにたとえられる元因状態、独立状態です。ただしこの状態はたんなる空白ではなく、むしろまったき充溢であり、そしてそれはそういうものとしてーいかなる顕現もそれを含むことができないほど充溢した無量の存在に無限に浸っているものとしてー体験されるのです。それは決して対象として見られることができないので、この純粋な自己は純粋な空なのです。」

元因段階の自己、至高の存在は、どんなものからも、それが物であれ、自然、心、魂、神であれ、形あるもの、有限なもの、創造されたものから自由であるということです。仏教では、無とか空性という表現を使い、キリスト教神秘主義者のエックハルトは、神を超えた神とか深淵、未生と呼んでいます。

ヴェーダンータにおいては、「ネーティネーティ」(これでもない、あれでもない」、キリスト教神秘主義者の聖ディオニシウスは否定神学と名づけたとおりこの段階へは、対象をすべて意識から脱落させることで達成されます。道元は心身脱落といいました。あらゆる対象を見ている「見るもの」の純粋な主観性を探求し続ければ、その時客体と主体は存在しなくなります。ただ純粋な知覚だけがあるのです。純粋な観照者だけが残るのです。そしてこの純粋な観照者それ自体が、非顕現であり元因的な至高の実在なのです。

「すべての可能な事物がまだ起こっていないので、これは純粋な空の完全な非顕現な状態なのです。この状態で実際に見るものは限りない無であり、そしてこれはただ、それがあまりにも充溢しているので、いかなる客体、いかなる主体、いかなる音にも入れられないことを意味するのです。それは全く顕現より先の、主体と客体に分かれる先の、純粋意識、純粋な気づきなのです。無時間、無空間、無対象です。で、それゆえ、根源的にまた限りなく空間と時間と対象の制限と締め付けから自由であり、そしてそれらの断片に内在する苦悩から根本的に自由なのです。」

元因段階の探究としてラマナ・マハリシが教えたのが、「私は誰か?」を問いつづけるということでした。私たちは今この瞬間の自分に気づいており、私は誰かと問えば、自分について知っていることを述べます。父、母、職業、名前、好き嫌い、性格、願望などを並べるでしょう。しかしそこがポイントで、まさにそういったものは見ることのできる対象であり、真の自己、「観照者」ではないのです。それらはたんに見られるものであり、見るものではありません。ですから、そうしたものすべてを並べて自分自身のことを述べるとき、実は自分についての誤った自己アイデンティティのリスト、嘘のリスト、まさに自分ではないもののリストを出しているのです。このように脱同一化していくと観照者に触れていきます。

元因領域の解放感を味わうために、ウィルバーの指摘を注意深く聴いてみましょう。人生の問題や苦しみを最も根源的な意味で解放されてくれる一番重要な箇所であると思うので、長いですがそのまま引用します。この文章は瞑想用として深く心に刻むために同じフレーズが繰り返しでてきます、何行か読んでその後瞑想してみるといいでしょう。

「この深く内面的な自己は向こう側の世界を目撃しており、そのうえあなたの内面的思考すべても目撃しているのです。この見る者は自我を見、身体を見、そして自然界を見ます。これらのすべてがこの見る者の「前」をはなばなしく行進していきます。が、見る者自身は見られません。あなたが何かを見るとしても、それはたんにもっと多くの対象なのです。
そこであなたはこう問いつづけます。私とは誰か?自身は見られないこの見る者とは誰またはなんなのか?あなたはただあなたの気づきへと後戻りし、見るまたは見ることができるいずれかの、およびあらゆる対象から脱同一化するのです。

自己、見る者、または観照者はどれか特定の思考ではありません。−私はその思考を一つの対象として見ることができます。見る者はどれか特定の感覚ー私はそれを一つの対象として気づくことができるーではありません。観察する自己は身体ではない、それは心ではない、−私はそれらすべてを対象として見ることができます。なにがこれらすべての対象を見つめているのでしょう?あなたのなかのなにが、たったいまそれらすべての対象を見つめているー自然とその光景を見つめ、身体とその感覚を見つめ、心とその思考を見つめているーのでしょう?なにがそのすべてを見つめているのか?

たったいまそれを感じとるようにーあなた自身であることの感じを十分つかむようにーしてみてください、そしてその自己が気づきにおけるたんにもう一つの対象であることに気づいてください。それは真の主体、真の自己でさえなく、気づきにおけるたんにもう一つの対象なのです。この小さな自己とその思考が、ちょうど大空を浮動していく雲のように、あなたの前をはなばなしく行進していくのです。で、そのすべてを目撃している真のあなたとはなんなのでしょう?あなたの小さな客観的自己を目撃しているもの。それは誰またはなんなのでしょう?

この純粋な主観性、この純粋な見る者へ戻るとき、あなたはそれを一つの対象として見ることはないでしょう。−あなたはそれを対象として見ることはできない。なぜならそれは対象ではないからです。それはあなたが見ることができるどのものでもありません。むしろ、あなたがこの観察する気づきのうちに静かにくつろぎ、−心と身体と自然が浮動していくのを見守るーにつれて、自分が実際に感じているのはようするに自由感、解放感、静かに目撃している対象のどれにも束縛されていないという感じだということに気づきはじめるかもしれません。あなたはなにも見ず、ただこの広大な自由の名かでくつろいでいるのです。

あなたの前を雲が行き、思考が行き、身体感覚が行き、そしてあなたはそのどれでもない。あなたは、これらすべてのものが去来する広大な自由の広がりなのです。これらすべてのものが去来する広場、空、広大な空間なのです。あなたは、世界が起こり、しばし留まり、そして去っていく、あの広大な自由感、あの広大な広場なのです。

そのようにしてあなたは、これらすべてのものを目撃しているあなたのなかの見る者はそれ自身まさに広大な空であることに気づきはじめるのです。それは物ではなく、対象ではなく、あなたが見ること、またはつかまえることができるどのものでもないのです。それはむしろ広大な自由感です。なぜならそれ自体は、客観的な時間とストレスと緊張の世界に入ってくるどのものでもないからです。この純粋な観照者は、こうした個別の主体と客体すべてが起こり、しばし留まり、そして去っていく、純粋な空なのです。

この観照者を一つの対象として見よう、または知ろうとする企てーそれはたんにいっそう時間の中で把握し、探し、そして固執することなのです。ですからあなたはそれをつかんで、あぁ、ついにそれを見たぞ!と言うことはできません。この観照する行為のうちに静かにくつろぐとき、あなたが感じるすべてはただ広大な空、広大な自由、広大な広がりです。この観照者は、対象である混乱、願望、恐怖、希望に巻き込まれていないまったき自由なのです。

もちろん、私たちは自分をこうした小さな個別の主体と客体と同一化させがちで、そしてそれがまさに問題なのです。私たちは見る者を、見ることができる取るに足りないちっぽけなもの(自我、身体、名声、成功、願望、不安、怒り、)と同一化させます。そしてそれが束縛と不自由の始まりなのです。私たちは実際はこの広大な自由の広がりなのですが、しかし、私たちは、いずれも見られることができ、いずれも苦しみ、そしてどれも私たちではない、不自由で、限られた客体と主体と同一化するのです。

物事は気づきの中で起こり、しばし留まり、そして去り、去来します。それらは空間の中で起こり、時間の中で動きます。が、純粋な観照者は去来しません。それは空間の中で起こらず、時間の中で動かず、そのあるがままです。常に在り、不変です。それは向こう側にある物ではなく、従って決して時間の流れ、空間、誕生、死の流れの中に入ってこないのです。

ですから、この純粋な見る者は生と死より先、時間と混乱より先、空間と運動より先、ビッグバン自体すらより先です。これは、純粋な自己がビッグバンより先の時間の中に存在していたことではなく、それが時間、時代より先に存在していることを意味するのです。それはただ決してその流れに入らないだけです。それは時間に気づいており、かくして時間から自由です。それはまったく無時間なのです。で、それは無時間なので、それは永遠なのです。それは果てしない時間を意味するのではなく、全く時間から自由だということです。

それは決して生まれなかったのであり、決して死なないでしょう。それは決してあの一時的な流れに入りません。それはあなたの身体で造られたものではなく、ゆえにあなたの身体が消滅するときもそれは消滅しないでしょう。それはあなたの身体の死を超えて生き続けるということではなく、むしろそれはまず第一に決して時間の流れに入らないということです。それはあなたの身体の後に生き続けるのではなく、常にあなたの身体より先に生きているのです。

空間、時間、対象物、それらすべてはただはなばなしく行進していくだけです。が、あなたは観照者、自身が純粋な空、純粋な自由、純粋な開放状態である見る者であり、それを通って全行進が、決してあなたに触れず、決してあなたを誘惑せず、決してあなたを傷つけず、決してあなたを慰めずに通り過ぎていく、偉大なる空なのです。で、この広大な空があり、この偉大な不生のものがあるゆえに、あなたは生まれたもの及び造られたものから、空間と時間と物の苦しみから、これらの断片に内在する恐怖のメカニズムからの解放を確かに得られるのです。」

この元因段階に意識を成長させることにより、すべての問題が解決あるいは解消すると霊的伝統は主張しているのです。そして多くの伝統ではこの元因段階を意識の究極の時点においてますが、一部のより洗練され発展した伝統においては、まだ最後のステップ、仕上げが残されています。非二元的伝統と呼ばれる一部の神秘家は元因段階を突破し、元因段階の観照者は究極ではないといいます。それでは、私たちの自己の到達点、究極の意識、最後の発達に入っていきましょう。

10、非二元的段階、究極の意識、非二元神秘主義、悟り、ワン・テイスト
非二元的賢者が主張するところを、私なりに解釈して述べるとこのようにあります。
元因段階の達成により、自己と世界の境界は解消され、すべての苦しみ、問題はなくなります。苦しむ自己そのものを空を行く雲と同じように見ていられるからです。しかし、非二元的賢者によれば、この観照者は、顕現された世界と観照者の間に微妙な二元論があると指摘します。世界と一つではないため、かすかな緊張があるのだといいます。そこで、非二元的賢者は、心と体、環境と脱同一化してきたように観照者からも脱同一化しなさいといいます。そして観照者すらも脱落させることで、驚くべきことに自己、観照者とはすべての顕現された世界に他ならないことが明らかになります。

私たちが今まで脱同一化しながら発達してきた段階、身体、生命、自我、ケンタウロス、環境、観照者すべてが元々真の自己、究極の自己そのものだったのです。私たちは、真の自己でないものから、真の自己になるために成長してきたのではなく、真の自己から真の自己へと成長してきたのです。意識の段階自体、幻想であったのです。成長とは、真の自己がより自らをはっきりと表してきた過程なのです。この非二元的な理解により、苦しみや悲しみ、喜びはすべて、真の自己自体の身振りにすぎないと見ます。真の自己、究極の意識だけがあるのです。私たちは今ここのあるがままの姿で完璧なのです。欠けるところがないのです。この非二元的な理解により、すべての存在が解放されるというのはそういうことなのです。

よって非二元的段階とは、他とは異なった一つの段階とかレベルではなく、すべての段階の真実であり、分離しているものではないのです。悟り、究極の意識は、たまたま自分がやっている行為そのものなのです。それ以外のどこかにあるわけではありません。今ここの自分の真実の姿がそれなのです。従って私たちは、悟りへ向かっているのでもなければ、悟りから離れたこともないのです。悟りを避けることは不可能なのです。神秘家たちは、よく海と鏡の喩えを使って説明します。波である自我は、真の自己である海と異なったものではありません。真の自己である鏡に映った自我である像は、鏡を離れて存在しているわけではないのです。波が高いか低いか、強いか弱いか、像が美しいか汚いか、正しいか間違っているかは、海や鏡には関係ありません。すべて悟りの表現です。

海とは波であり、波とは海です。鏡とは像であり、像とは鏡です。真の自己とは自我であり、自我とは真の自己です。悟りとは日常のことであり、日常とは悟りのことです。これが非二元の意味するところです。私たち日本人誰もが一度は耳にしたことのある般若心経はこう書かれています。「形(色)は空であり、空は形(色)である。(色即是空、空即是色)」。空とは真の自己のことであり、悟りを現しています。

すべてが完成された状態であるとはいえ、それに気づくまでには一歩一歩道を歩まなくてはなりません。すべては悟りだと概念で知ったとしても、苦しみがなくなるわけではありません。相変わらず、自我の視点から世界を見て、行為してしまうでしょう。なので、霊的な道が用意されているのです。ウィルバーは、霊的な段階に対応してそれぞれ、ヨーギの道、聖者の道、賢者の道と名づけているので、ここで今までの霊的成長を振り返ってみてみましょう。

ウィルバーは、心霊段階の技法を「ヨーギの道」と呼んでいます。「ヨーギは自分という個体の心身のエネルギーを利用して、その心身を超越します。心身、そしてその中に含まれるふだんは無意識のプロセスが、厳密な管理の下に置かれるに連れて、注意力(意識の焦点)は心身から自由になり、やがてトランスパーソナルな基盤へと立ち返っていくのです。」そしてこのプロセスが微細段階へと続いていきます。

微細段階の技法は、「聖者の道」と呼んでいます。「注意が外的環境という外界や、心身という内界から次第に自由になっていくに連れて、意識は主体・客体の二元論を超越し始めます。二元論でできた幻想の世界が、本当の姿、つまりスピリットそれ自体の顕現(現れ)に他ならぬものとして見えるようになってきます。外界も内界も、共に神聖な輝きを放ちはじめます。意識そのものが発光し、光で満たされた存在となり、神性そのものと直接触れ、さらには結合していると感じられるようになります。これが聖者の道です。東洋でも西洋でも、聖者の道には光の輪が描かれていますが、これは悟りを開き、直感を得た精神の、内なる光のシンボルなのです。心霊レベルは、神性やスピリットと交わりはじめる段階ですが、微細レベルではスピリットとの結合、神秘的合一を体験するのです。」

元因段階の技法は、「賢者の道」と呼んでいます。「元因段階では、心霊から始まったプロセスが完成します。魂、すなわち純粋な観照者はその源に溶け込み、神との合一は、神性、すなわち万物の未顕現の基盤との同一性にとってかわります。この段階では、自分が基本的にはあらゆる条件、あらゆる本質、あらゆる存在を成り立たせているものと同一なのだという理解を得ます。スピリットは、万物の本質ないし条件そのものですから、すべてのものと完全に矛盾なく存在します。さらには、そこに何も特別なものなどありません。ただ木を切ることであり、ただ水を運ぶことです。(禅で使われる言い方)

そのため、この段階に達した人は、しばしば全く普通の人間、別段変わったところのない人として描かれます。これが賢者の道、あまりに賢すぎて、はたからはそれを見抜くこともできないほど賢い人の歩む道です。彼らは自分の務めに適応し、その務めを果たします。禅の十牛図は悟りに至る道を図解したものですが、その最後の絵では普通の老人が市場に出向いているところが描かれています。絵についている説明文はこうです。「彼らは手ぶらで市場に入る」と。これがすべてを言い表しています。」

ウィルバーは非二元の感じを味わわせようと、指摘の教えを要約しています。
「あなたが観照者の状態でくつろぎ、そしてこの観照者を大いなる広がりとして「感じて」いる間に、例えばもし山を見つめれば、そのとき観照者の感覚と山の感覚が同じ感覚であることにあなたは気づきはじめるかもしれません。あなたが自分の純粋な自己を「感じ」、そしてあなたが山を「感じる」とき、それらは絶対に同じ感情なのです。言い換えれば、真の世界はあなたに二度ー外で一度、内で一度ー与えられるのではありません。その二度性こそ二元性の意味なのです。そうではなく、真の世界はあなたに一度、直接与えられるのです。それは、一つの感情、一つの味(ワン・テイスト)であり、その一つの味において全く充分であって、見るものと見られるもの、主体と客体、断片と断片に引き裂かれていないのです。

あなたは山を味わうことができます。それはあなたの自己と同じ味です。真の体験、リアリティ(現実)それ自体は非二元なのです。あなたはなおあなたであり、そして山はなお山ですが、しかしあなたと山は、その瞬間の一つかつ唯一のリアリティである、一つのかつ同じ体験の二つの側面なのです。もしあなたがそのようにして現在の体験のなかにくつろげば、分離的自己感覚が解けるでしょう。あなたは人生から引っ込むことをやめるでしょう。あなたは体験を持たないでしょう。あなたは突然すべての体験となるでしょう。

それゆえ突然、あなたは身体・心の中にいなくなります。突然、心身が脱落したのです。突然、風はあなたの上に吹き付けず、それはあなたを通りぬけ、あなたの内側で吹くのです。あなたが山を見ているのではなく、あなたがすなわち山なのです。山は、あなたの皮膚よりもあなたに近いのです。あなたはすなわちそれであり、どこにもあなたはいない。ただこの輝ける全展示が自発的に刻々と起こっていくのです。

重さの感覚がすっかり脱落します。なぜならあなたがコスモス(心・魂・霊を含んだ宇宙)のなかにいるのではなく、コスモスがあなたのなかにあり、そしてあなたは純粋な空なのです。全宇宙は、聖なるもの、原初の純粋さの透明なきらめきなのです。が、聖なるものはどこか他にあるのではなく、それはただこのきらめきのすべてなのです。」

元因段階の観照者は、情動から脱同一化しますが、非二元の賢者は情動を恐れず、積極的にその中に入っていき、情動それ自体の真実、空性を見ます。そのため、非常に大胆に智慧を表現することもあります。この世界から身を引くのではなく、この世界を褒め称えるのです。

「ですからこれらの非二元学派は必ずしも情動、思考、願望、性癖を放棄しません。すべきことはただ一切の形の空を見ることであって、実際にすべての形を取り除くことではありません。従って、形は生起し続け、そしてあなたは波乗りすることを学ぶのです。悟りは実は原初的なのですが、しかしこの悟りは永久に続き、そしてその形を永久に変えていくのです。なぜなら新しい形が常に起こり、あなたはそれらと一つだからです。

かくして、非二元的学派はこう求めます。空として留まり、いっさいの形を抱け、と。解放は空のうちにあり、決して形、顕現された世界のうちにはないのですが、しかし、空はすべての対象の鏡としてすべての形を抱いているのです。かくして形は生じ続け、あなたはこれらいっさいの形なのです。あなたは、展示されたものなのです。あなたと宇宙は一つの味なのです。あなたの原初の顔がもっとも純粋な空であり、それゆえ鏡を覗き込むたびに、あなたはただ全コスモスを見るのです。

禅は、もちろん、これらすべてをはるかに簡単に言っている。そして、直接にこれを指し示す。
     古池や
     蛙飛び込む
     水の音」

誕生から、自我の発達を経て、神性、悟りまでを見てきました。生命は長い困難な年月をかけて成長してきたのです。その歴史はしばしば苦しみと悲しみに包まれていました。しかし、元因・非二元の意識、つまり「空性」を理解することによって、すべては解きほぐされ、もとどおりになるのだとウィルバーはいいます。その時、苦しみや悲劇は幻想、夢であり、聖なるものだけが輝いているのだとわかるそうです。そして、「空性」からは、あらゆるものが顕現されてくるので、その顕現されたものは、時間を通してより複雑な成長へと向かっていくのです。しかし、その顕現されたものは元々、「空性」にほかならず、従って、「空性」としての「自己」から「空性」としての「自己」への道なのです。

ウィルバーは言う。
「個人の発達で、一定の段階に達した時点では、「無形」(悟り)のものへの急激な跳躍がいつでも起こりうる。発達が高次になるにつれて、跳躍はよりたやすく、起こりやすいものとなる。しかし、「無形」のものそれ自体は跳躍の結果でもなければ、それによって現れるものでもない。それは、今、ここに最初から、「本来の面目」としてビッグバン以前の顔としてあったのである。その顔はすべての宇宙の存在から、お互いに、単なる自己認識としてでなく、大いなる「自己」をお互いの中に認識するために見守っているのである。

空性として留まり、形態(世界)を抱擁する。真の解放は空性の中にあり、けっして形あるものの中にはない。(最もその二つはけっして離れたことはないが)こうして私がたとえ突然、終わりなき形あるものの道を離れて、形のないものに自己を見出し、悟りを実現したとしても、それでも、それでも形あるものは、心霊段階へ、微細段階へ、そして何億とあるつねに、つねに獲得可能な形ある宇宙へと、続いていく。止むことなく、終わることなく、劇的に。」

参考文献

「万物の歴史」  ケン・ウィルバー  春秋社
「進化の構造」  ケン・ウィルバー  春秋社

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