叡智の伝統ー永遠の哲学における七つの尊い真理ー
現代の私たちの社会は、何が価値のある、生き方、人間性、社会かという問いに対する答えが、それぞれの国、地域、人々によって異なっている状況にあります。この違いを尊重してお互いを認め合うことが、私たちに今求められていることでしょう。相互の尊重という理解は人類が理性を獲得したことにより、実現可能となります。理性の力により、神話的な宗教や部族的集団の排他性を超えて世界を結ぶことができるのです。しかし、理性は合理的な考え方を基準に物事を分けて見ますので多様な意見を認めようとしますが、、違いは違いのままで取り残されてしまい、争いは避けられません。そして自分たちとは違う他者がいるという認識が根底にありますので、そこには相手を尊重しながらも、疑いや恐怖がつきまとうことになってしまうのです。
つまり理性の力だけに頼っていては、どこまでいっても、一致ということはありえず、従って絶対的な安心も得られないということになります。そして理性的合理的な思考に基づいた、現代の主流的な学問、現代社会はいずれいきづまることになると推測されます。物事を分けて研究することは、科学の発展や物質の豊かさを生み出しましたが、私たちは今だに平和や幸福にはなっていないと感じています。そこで問いはこうなります。すべての人が合意できる共通した世界に対する考え方はないのか?世界の人々を結びつける普遍的な理解はあるのだろうか?私たちは現代の多様性を認識しつつ、その中にある共通性、普遍性を見出していかなければならないのではないでしょうか?多様性の中の統一が今緊急に求められていることです。
・永遠の哲学
普遍的な人間観というと、あらゆる面で異なっている人類をみて、常識的には想像もできないかもしれませんが、実は人類の発祥以来途絶えることなくそのような考え方が存在していたのです。それは古今東西の偉大な神秘家、哲学者、思想家、科学者によって語られた世界観であり、それらを総称して「永遠の哲学」と呼ばれています。「永遠の」と呼ばれるのは、まさにそれが時代や地域を越え、文字通りあらゆる文化の中に現れているからです。そしてそれは、現代人には信じられないかもしれませんが、どこに現れたものであれ、、本質的に類似した特徴があり、世界のどこでも意見が一致しているのです。つまり、多様性の中の統一は、すでに一部の人たちによって勝ち取られており、その後に続く者による検証に支えられてきた信頼のおける世界観があったのです。
永遠の哲学はあらゆる時代に登場してきていましたが、それが世間の主流の考え方だったというわけではありません。「永遠の哲学」の思想家たちの洞察は、悟りや光明、神秘的合一といった体験を基にしたもので、その体験は特別な長い期間にわたる修行によるか、あるいはごく稀に突発的自然に現れるかなので、この洞察に至る人が少なかったためです。つまり科学的な検証としての追体験を行うことが難しいことが要因になっています。もちろん、神秘的なグループの中では、洞察を得たものどうしの検証は行われていました。
他に、この永遠の哲学の理解は人間の成長の究極的な達成において現れるものであると主張しているため、自分より上を認めたがらない、理性的な自我のレベルにいる私たちの社会は特に、永遠の哲学の普遍的な世界観を無視しようとします。事実、一部を除いてアカデミズムの世界ではほとんど排除されているといっていいでしょう。科学的な実証を重んずるのは大事ですが、それを物質的あるいは肉眼で見える物だけに限定してしまったところに、現代の物質的科学主義の限界があります。心を脳の産物として還元し、魂の領域を迷信として片付けることにより、現代のアカデミズムは、絶対的な幸福への道を閉ざしているのです。
アラン・ワッツは永遠の哲学を要約してこういいます。
「このように私たちは自分たちの立場の際立った特色にほとんど気づいておらず、さらには、普遍的なひとつの哲学的同意が様々な形で存在してきたという明白な事実をも、なかなか認めることができないでいる。それは、現在であろうと6000年前であろうと、ニューメキシコであろうと日本であろうと、同じ洞察を報告する人々や同じ本質的教義を説く人々によって維持されてきたものだ。」
・文化相対主義
永遠の哲学の洞察はどこにおいても同じであるといいましたが、育った環境や言葉、文化、歴史が違えば、当然考え方も違ってくるものです。文化相対主義という概念は、すべての知識は言語と文化によって形づくられるものであり、文化や言語がそれぞれ劇的に違っている以上、すべての人に共通する集合的真理を見つける方法などありえないと主張しています。一つの考えによって人間を規定することは、人間の個性を奪うものであると感じる人もいるかもしれません。個性と普遍性に関してウィルバーの説明を見てみましょう。
「人の暮らしぶりには、食習慣、言語構造、婚姻慣行などといった明らかな文化的相違に加え、十分に普遍的あるいは集合的な現象が多く見られるのです。たとえば人体には208本の骨があり、心臓が一つ、腎臓が二つといった具合に備わっていますが、これはマンハッタンだろうとモザンビークだろうと同じだし、現代であれ1000年前であろうと同様です。こうした普遍的な特徴を、私たちは深層構造と呼んでいます。なぜなら、これらは本質的にどこでも同じだからです。一方、このことは様々な文化が、それぞれ全く異なった方法でこれらの深層構造を用いることの障害にはなりません。たとえば、中国の纏足からザイールのウバンギ族の円盤を入れて伸ばした口、ボディペイントや衣装のスタイル、労働の様式。そういった各文化の特質と目されるこれらの変異を、私たちは表層構造と呼びます。それが、局地的で非普遍的だからです。
人間の精神の領域についても同じであることがいえます。文化相互の相違をなす表層構造に加えて、人間の精神には、身体と同様に文化を超えて類似する深層構造があるのです。つまり、精神の現れ出るところならどこでも、人はイメージやシンボル(言葉)、概念や規則を形成する能力をもっています。個別のイメージやシンボルは、確かに文化によって異なりますが、これら精神的かつ言語的構造を形づくる能力それ自体、そしてその構造それ自体は、どこで現れても本質的に類似しています。人の体に毛髪が生えるのと同様に、人間の精神はシンボルを育てます。精神的な表層構造はかなり異なっているけれど、精神的な深層構造は極めて似ているのです。
そして、体に必ず毛髪が生え、人間の精神がどこでも観念を育むのと同様に、人の魂は聖なるものにたいする直観を必ず育みます。こうした直観や洞察が、世界の偉大な霊的伝統、あるいは叡智の伝統の核心を形成するのです。さらにまた、偉大な伝統の表層構造はまぎれもなくそれぞれ異なっていますが、深層構造は、極めてよく似ていて、ときには完全に一致します。このように、永遠の哲学が関心を持つのは、主に人と神との出会いの深層構造なのです。なぜなら、ヒンドゥー、クリスチャン、仏教徒、タオイスト、スーフィーのすべてに一致する部分が見出されるなら、おそらく、とても重要なことを知ることができるからです。それは普遍的な真理と究極の意味を告げる何か、人間存在の、まさに核心に触れる何かなのです。」
永遠の哲学は主に宗教の中で保たれてきましたが、ここで宗教を表層構造としての神話的、大衆的、顕教的宗教と、深層構造としての神秘的、霊的、密教的宗教に分けることが肝腎です。永遠の哲学は、宗教の中の核心的な教えの中で継承されてきました。私たちが知っている宗教は大部分99%表層構造で、残りの1%が真の教えであると言われています。しかし1%とはいえ世界の宗教には例外なく一般的な理解を超えた、体験を通じて知ることのできる智慧を守ってきた伝統があるのです。キリスト教神秘主義、禅、チベット密教、ヒンドゥ教の中ではヴェーダーンタ学派、イスラム教ではスーフィー、ユダヤ教ではカバラやハシディズム、道教では老子・荘子などがあるのです。これらの道を最後まで極めた人が、似たような体験を異口同音に語っていることは、驚くべきことです。
従ってこのように世界のあらゆる宗教の深層構造が同じ体験を共有していることが理解されれば、現代世界の深刻な問題である宗教間の無用な争いは避けられるのではないでしょうか。もちろん実際の体験を得るのは難しいですが、永遠の哲学が教えることを真剣に受けとめることは、人類の閉塞状況を打破し、進化を前にすすめる上で欠かせないものであると言えます。
・永遠の哲学の7つの合意
それでは、永遠の哲学の本質とはどのようなものか、ケン・ウィルバーが上げている、七つの永遠の哲学の重要な一致点について詳しく見ていきましょう。
1番目の真理は、「スピリット・神・仏性は存在する」というものです。
「スピリットは存在します。神は存在します。至高のリアリティは存在します。それは、ブラフマン(ヒンドゥー教)であり、ダルマ・カーヤ(法身)、ケテル(カバラ)、あるいはタオ(道)、アッラー(イスラム)、シヴァ(ヒンドゥ教)とも呼ばれます。人々は本当は一なる存在である「彼」を様々な名で呼ぶのです。この知識に関する根拠は直接体験にあります。彼らの主張は単なる信念や観念、理論やドグマに基づくものではなく、むしろ直接体験、実際のスピリチュアルな体験によっているのです。これが神秘家たちを単なる教義的宗教的信念から区別するのです。」
神が存在するということは、まず初めにそのように感じる体験があるのだということです。しかし、その体験は勘違いかもしれず、幻覚を見ているのかもしれません。そこで、体験者は自らの体験を師や先達者に話し、検証してもらうのです。そしてまぎれもない真正な覚醒だと判断されて初めて認可をもらいます。このプロセスは科学的な知識と同様に、実験(修行)、把握(悟り体験)、検証(師との問答)という手続きをとるのです。この知識が妥当なものとしてさらに認められるには、より多くの体験を得て、調べる必要があります。そういうことを叡智の伝統はまさに何千年とかけて行ってきたのです。それに比べれば、近代科学などまだまだ新米の知識といえるでしょう。
「従って、永遠の哲学の神秘家たちは、何事も素直に信じてはならないと教えます。むしろ、自分自身の覚醒と体験をテストするために、実験道具を提供するのです。実験室はあなた自身の精神であり、実験道具は瞑想です。自分で試してみて、その結果を同様の実験をしたほかの人と比べてみるのです。そうするつもりがあれば、誰もが有効と認める経験的事実の数々によって、スピリットの確かな法則、確実な深遠な真理にたどりつけます。その最初のものが、神は存在する、ということなのです。」
信じることが求められているのではなく、実践することが求められているのです。
2番目の真理は、「スピリットは内面に見出される」ということです。
スピリットが存在するとしてそれはどこに存在するのでしょうか?それに対して神秘家たちは常に心の内面を見つめつづけよと教えます。
「内なるスピリッット、人間の内部には宇宙が存在するのです。神秘家たちの驚くべきメッセージといえば、人はその存在の核心において神である、ということです。厳密にいえば神は内側にも外側にも存在しません。スピリットはすべての二元性を越えているからです。しかし、このことを知るには、「内側」が「外側」になるまで、ずっと内側を見つめていかなくてはなりません。
この永遠の真実の最も有名な例は、古代インドの「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」の中に登場します。「あなたの存在そのものの中に、あなたは真理を知覚することができない。だが、実際はそこにあるのだ。そこ、つまりあなたの存在の精妙なエッセンスの中に、すべての存在するものは「自己」を持っている。不可視にして精妙なエッセンスは全宇宙のスピリットである。それは真実である。それはアートマン(自己)である。汝はそれである。
汝はそれである。いうまでもなく「汝はそれである」というのは、あなたが神であると言うことで、これはあなたの個人的な孤立した自己とか自我、何々氏のことではありません。実際には、個人的自己は、崇高なるアイデンティティの理解において、まさに第一の障壁となります。問題の「あなた(身の自己)」は、あなたの最も深い部分であり、精妙なエッセンスであり、むしろそれは死すべき定めの自我を超越し、直接神にあずかるものです。
ユダヤ教では、これをルアク(根源)といい、ネフェクと呼ぶ個人的自我とは異なり、それぞれの人に備わっている神聖にして超個的なスピリットを意味します。キリスト教ではそれを神と一つのエッセンスからなる、内在するプネウマあるいはスピリットと呼び、せいぜい神を崇拝するだけの個人的なプシケー(魂)ではありません。クーマラスワミが言ったように、人の不死にして永遠のスピリットと、個人的ではかなき魂(自我を意味する)を区別することは、永遠の哲学の基本的な理念です。死すべき魂を投げ捨て、あるいは超えていくことによってのみ、万物と一つである、自分の不死なる霊を見出すことができるのです。」
私たちは幸福を求めて世界中、つまり外側を夢中になって探しまわっていますが、実は探しまわっている者の内面に真の幸福はあるのだといいます。内面にある幸福、神を見出すための実践が瞑想です。つまり瞑想は神になるための最も直接的な道なのです。「私は神である」というこの2番目の知識は、驚嘆すべきことであると同時に、社会の支配階層にとっては脅威となるものです。よってこの知識を公言した人は、激しい弾圧に晒されてきました。これが永遠の哲学が多くの神秘家を生んだにもかかわらず、一般的な知識にはならなかった理由です。しかし東洋においては、チベットや中国の唐の時代の禅などかなり受け入れられていたこともありました。日本でも最初の国の型を形作り、政治の表舞台にいた聖徳太子は永遠の哲学に通じていたとみられていますし、禅は侍や文化をとおして民衆にも浸透したりもしています。
3番目の尊い真理は、「私たちのほとんどはこの内面のスピリットを理解していない」ということです。なぜなら私たちは罪と分離と二元論の世界、すなわち堕落と幻影の中で生きているからだ。
3番目の知識は、私たちがなぜ完全な満足を得ることができず、争いの絶えない現実の中で暮らしているのかを説明しています。つまりもし私たちが神ならば、どうしてそのことに気づかないのでしょうか?何が私たちと神を隔てているのでしょうか?永遠の哲学の解答はつきつめればみんなこういうことになります。
「私は自分の真のアイデンティティ、すなわちスピリットとの合一を知覚することはできない。なぜなら私の意識は、自分が現在関わっている特定の活動によって曇らされ、遮られているからだ、と。そしてその活動とは、多くの異なる名前で呼ばれてはいますが、個別的自己すなわち自我に収縮し、そこに意識の焦点を当てることに他なりません。私の意識はオープンではなく、リラックスしておらず、神に向いてもいない。それは閉ざされていて、縮小し、自己中心的だ。そして、他のものをすべて排除するほどに自己収縮に同一化しているというまさにそのために、かつてのアイデンティティ、万物と共にある真のアイデンティティを捜し出し、見出すことができないのだ、と。
私個人の本質、「自然人」は、こうして堕落し、あるいは罪と共に暮らし、スピリットとも、世界の他のすべてのものとも分離し、異質なものとなった生活を送るようになるのです。「外の」世界をまるで完全に外部であり、自分とは異質で、自分に敵意を抱いているものと認識し、そこから分離し孤立します。死すべき肉体というこの孤立した壁の中に完全に箱詰めにされ、監禁されたように感じるのです。
こういう状態は二元論とも呼ばれます。あちらがわにある「客体」の世界から自分を「主体」として引き離し、それからこの原初の二元論に基づいて、世界をすべて対立する二者に引き裂いていくのです。快楽対苦痛、善対悪、真実対誤謬、などなど。そして永遠の哲学によれば、自己収縮や主体客体の二元論に支配された意識は、あるがままの実在、すなわち全体であり至上のアイデンティティである実在を知覚することはできません。キリスト教徒が言う原罪とは、言い換えるなら、自己収縮であり、分離した自己感覚、自我です。罪は自己のなすことにあるのではなく、自己の在り方そのものにあるのです。
さらに自己収縮し、「ここに」孤立した主体は、まさに万物と共にある真のアイデンティティを知覚できないがゆえに、欠乏感や収奪されたという思い、細切れにされてしまったといった激しい感情を抱きます。換言すれば、分離した自己は、苦痛と共に生まれてくるのです。それは「堕ちた状態」で生まれてきます。苦痛は分離した自己に起きるのではなく、分離した自己が生まれつき持っているものです。「罪」「苦痛」そして「自己」は同じ過程、同じ収縮あるいは同じ意識の断片化につけられた別の名前です。自己を苦しみから救うことはできません。ブッダが言ったように、苦痛を終わらせるには、自己を終わらせなくてはならない。両者は一連托生なのです。」
要するに、今現在の大半の私たちが感じている自己は、残念ながら苦しみから逃れることができないのです。分離した自己がどんなにあがこうがより多くの苦しみや争いを生むばかりです。従って、神秘家たちは、自我が改善に努めようとするのを止めて、自我の内面を見つめなさいと言ったのです。分離した自己が苦しみの原因だとしたら、私たちの人生も苦しみに満ちたものになるのは避けられないでしょう。仏陀はこの自我が避けることのできない根本的な「苦」(ドゥッカ)をまず最初に説きました。(苦諦)仏教、はじめ霊的な修行はこの普遍的な苦しみを理解した時に始まると言っていいでしょう。ソクラテスは「無知の知」といいまいたが、まさに私たちは本当の事を知らないのだという理解が真理への扉なのです。またクリシュナムルティは自我を獄舎と表現しましたが、今の自分自身である自我が、とてつもなく不自由で激しい不満を感じることは、獄舎にいるのだということに気づいている明かしであり、自由への一歩であると言えます。苦しみとは最初の恩寵なのです。
宗教というと地獄のおどろおどろしい絵を思い浮かべる人も多いでしょう。それらは修行者の心の中のヴィジョンであり、修行の過程において現れる本人にとっては非常にリアルなものですが、東洋においては地獄のヴィジョンは分離した自己を現していると見ます。地獄の中で焼かれているのは、分離した自己であり、修行の成果でもあるのです。もちろん、西洋の神秘家にも同じような洞察はなされています。18世紀のイギリスのキリスト教神秘主義者、ウィリアム・ロウはこう言っています。「ここで簡潔に真実の全体像を見てみよう。あらゆる罪、死、呪い、地獄とはこの自己の王国にほかならない。すなわち、魂を神から分離し、永遠の死と地獄に帰着させる自己愛、うぬぼれ、身勝手の様々な作用に他ならない。」
永遠の哲学の賢者から見ると私たちの人生は地獄に他ならないという絶望的な結論に行きつきました。キリスト教神秘家たちが絶望の内に神を見出してきたように、この完全な絶望は私たちを第4の真理に導いていきます。
4番目の真理は、「この罪と幻影と苦しみの中に落ち込んだ状態から逃れる方法、解放への道が存在する」というものです。
解放への道が存在していなければ、永遠の哲学は単なる哲学や理論になってしまうでしょう。永遠の哲学の本質は知識よりか、実践に重きをおいています。知識の性質上、特別な実践を行わないと理解できないからです。ありがたいことに神秘家たちは解放への確かな道があると断言しています。単純に「元々神聖なる存在であり、そこから降りてきたのだから、降りてきた道をもう一度引き帰せばいいのだと」といいます。だから解放を約束できるのです。
分離した自己(小我)はサンスクリット語でアハンカーラと呼んでいますが、これは「結び目」とか「収縮」という意味を持っています。このアハンカーラ、自我中心的に収縮した意識が、私たちの堕落した状態なのです。そこで、堕落を逆転し、この残忍な状態をひっくり返し、幻影の結び目を解きほどいていくのです。ヨーガにおいて身体に配置されたチャクラも同じような意味をもっており、頭頂から中心線に沿って尾骨まで作られた結び目を、今度は尾骨から上に向かってクンダリーニエネルギーによってほどいていこうとするのです。
しかし結び目を解くといっても、その結び目は現在の自己そのものを形づくっているので、容易にはほどけません。解くというのは、その段階の自己を捨てることになるからです。いかに自我が苦しみを生むものだと知っていても、現在の私という存在そのものなので、それを捨てるということは、死を意味するからです。従って、私たちは解放を望みながらも、解放の道を拒むのです。
解放の道とは
「分離した自己感覚、小我、自己収縮を放棄し、あるいは殺してしまうのです。もし万物と共にあるアイデンティティを見つけたいのなら、分離した自我と共にある誤ったアイデンティティをそっくり手放さなくてはなりません。そこで、この堕落は、実際には何も起こらなかったのだという理解、神のみが存在していて、分離した自己は幻影だったのだという理解によって、簡単にひっくり返すことができるのです。けれどおおかたの人にとって、この堕落はゆっくりと、一歩一歩逆転させていく必要があります。
この道は、正確にたどっていくなら堕ちた状態から悟りの状態へ、サムサーラ(輪廻)からニルヴァーナ(涅槃)へ、地獄から天国へと私たちを連れていってくれるでしょう。新プラトン派のプロティノスは言っています。ひとりから「ひとり」へ孤立した者から「単独者」へ向かう旅、と。「ヨーガ」という言葉は、「結合」を意味しており、神と魂を結びつけるものなのです。」
私たちの知覚には育ってきた環境の中で身につけたいくつものフィルターが重なり合っているので、それを一枚一枚はがしていくのが修行だというのです。これは能力を一つ一つ身につけてきた自我の努力とは正反対のものです。何かを加えるのではなく、余計なものを取り除いていくといった感じでしょう。それはすでにそこにあるのだと神秘家はいいます。何かを達成するのではなく(それでは自我はますます強くなる)、常に在るものを認識することが道なのです。それゆえ達成なき達成というのです。
ラム・ダスは永遠の哲学の主要な道を二つに分けています。
「二つの道がある。一つは自我を無限に向けて拡張していく方法であり、もう一方は自我を無へと縮小していく方法だ。前者は知識によるものであり、後者は献身によるものだ。ジュニャーニ(智慧の保持者)は言う。「私は神ー普遍的真理だ。」献身の徒は言う。「私は何者でもありません。神よ、あなたがすべてです。」どちらの場合も、自我の感覚は消えうせている。」
解放の道は、自我を捨てさせるか、あるいは巧妙な手段を使って、自我を手放さなければならない状況に修行者をおきます。(師との問答や苦行、恩寵など)そのことによって、自分は普遍的なスピリットであるという至上のアイデンティティを再発見ないし再生するのです。つまり五つ目の知識です。
5番目の真理は、「この道を最後までたどるなら、その結果、再生あるいは悟り、内なるスピリットの直接体験、至高の自由、解脱に至る」というものです。
この道を最後まで行くとは、自我が死ぬということです。そして大いなる自己が復活するのです。インドでは「二度生まれ」と表現しますが、全く新しい存在として生まれ変わるのです。生まれ変わるとはいっても、変容を繰り返してきた、意識の発達の自然な到達点ではあるのですが。この死と再生は永遠の哲学の中心的なテーマであり、様々な伝統において語られてきました。
「キリスト教においては、アダムとイエスという人物の中にその元型を見出すことができます。神秘家はアダムを「古い人」とか「外の人」と呼び、彼が地獄の門を開いたとしています。一方、イエス・キリストは「新しい人」ないし「内側の人」と呼ばれており、楽園の門を開くとされているのです。特にイエス自身の死と再生は、神秘家によれば、分離した自己の死と、意識の流れから新たにして永遠の運命が復活することの元型なのです。すなわち聖なる自己あるいはキリストとしての自己とその昇天です。「人」から「神」への、あるいは外側の人から内側の人への、小我から大我へのこの変化の過程は、キリスト教ではメタノイアとして知られていますが、これは「悔い改め」と「変容」という二つの意味をもっています。自我(罪)を改め、大我(キリスト)として変容するのです。
同様に、イスラム教神秘主義では、この死と再生を、「悔い改め」を意味するタウバーと「変容」を意味するガルブとでとらえていますが、両方がスーフィーのビスターミーの簡潔なフレーズに要約できます。「自己の忘却は神の想起だ」
ヒンドゥー教や仏教においても、この死と再生は常に個我(ジヴァートマン)の死と、隠喩的にヒンドゥー教徒がブラフマー(梵)、仏教徒が空性(シューニャーター)と表現している本性にあらためて気づくこととして描写されています。実際の再生ないし突破の瞬間は、解脱(モークシャ)ないし悟り(ボーディー)として知られています。
仏教ではこの悟りの体験を、「意識の最深部への完全な方向転換」と表現しています。この「方向転換」は、本来は開かれた、クリアーで広大な意識があるところに、分離した堅固な自己を打ちたてようとする習慣的傾向を単にやめることです。この方向転換あるいはメタノイアを、禅では悟りあるいは見性と呼んでいます。「見性」とは「自らの本性を直接見ること」を意味します。直接自分の本性を見ることは、ブッダになることなのです。」
悟りにおいて自我は葬り去られるといいますが、実際に現実の死として体験されるのでしょうか?
「悟りは自我の実際の死です。隠喩ではありません。この経験はとても劇的かもしれませんし、かなり単純で自然なものかもしれません。いずれにしろ、これを体験すると、あなたは突然、次のことに目覚め、理解するのです。まず何よりも、自分の真の存在は自分の目に映るすべてのものと同一であること、古臭く聞こえようとも、自分が文字どおり森羅万象、全宇宙とひとつであること、そして実際は神や万物と一体になったのではなく、永遠に、ずっと一体であったのを、今まで理解していなかったのだということです。この体験の価値はそこにあります。
この感覚、すなわち遍満する自己の発見に加えて、小我があっけなく死んだという感覚、実際に死滅したという極めて強い感覚が現れます。禅では悟りを「大死」と呼んでいます。エックハルトは大胆にもこういいました。「神の王国はとことん死にきった者のためにある。」と。クーマラスワミの説明はこうです。「自己の死を踏み石にすることによって、初めて私たちは、真我として同定できるようなものは文字どおり何も存在しない、人はすでにあるがままである自分になれるだけだ、という理解に最終的に至るのである」
ここで永遠の哲学の第6のポイントに到達しました。
6番目の真理は、「苦しみと罪を終わらせる」ということです。
悟りあるいは再生により苦しみを終えることができると永遠の哲学は主張します。
「ブッダは自分は二つのことしか教えていないといいました。それは何が苦痛を起こすのか、そしてどうやってそれを終わらせるか、ということです。苦しみの源は、分離した自己の執着と欲望にあり、そしてそれを終わらせる方法は瞑想の道によって自己と欲望を超越することです。それは悟りや、一般的な霊的修行の後には、もはや苦痛や苦悩、恐れや痛みを感じないということではありません。感じます。単に、それらがもうあなたの存在にたいする脅威ではなくなり、悩みの種ではなくなるということなのです。あなたはもはやそれらと自分を同一化したり、悩みを抱えた主人公のようにふるまったり、それらにエネルギーを与えたり、脅えたりしなくなります。脅かされるべき断片化された自己はなくなります。
逆にいえば、大我が脅かされるということはありえません。なぜなら、あなたと万物が一体である以上、あなたに害を与えることができるようなものは外部に存在しえないからです。ハートはリラックスし、結び目はほどけます。その時人は、たとえどんな大きな苦しみがあろうと、基本的にはそれが自分の本質に影響を与えることはないのだということを理解します。苦痛はやって来ては過ぎて行きますが、彼は今や「理解を超えた心の平安」の内にいます。賢者は苦痛を感じますが、それは賢者の心を傷つけません。」
悟りとは、意識の究極の段階であると同時に、元々そこから来たところの基盤でもあります。このような悟り体験を言葉こそ違え、あらゆる宗教が今日まで伝えてきたということは驚くべきことです。苦しみを終えた人がいるという事実が私たちを救ってくれます。永遠の哲学の伝統は、人類始まって以来、唯一消し去られることのなかった知識です。私たちは永遠の哲学の真理によって生きているのです。苦しみを超えることは信頼に値する実行可能なことなのです。
そして悟った人はどのようにふるまうのかが、最後の真理にあります。禅では特に悟った後のことを大事にします。無住処涅槃といい、悟り自体も捨て去って、すべてと一つになれと教えます。
7番目の真理は、「生きとし生けるものへの慈悲に基づく社会的行動」です。
悟ったらどうなるのか?自由になった人は何をするのか?欲望を超えた人はどんな動機に基づいているのか?最後の知識は、悟りは私たちの社会にどのように目に見える形で現れるのかを説明しています。永遠の哲学の伝統が最も大切なものとしてきたのが、この最後の真理です。これは存在の究極の姿です。
「悟った人は心の動揺はしませんが、苦しみの存在に気づいているがゆえに、苦しみをリアルなものだと思って苦しんでいる人々を助けたいという欲求、すなわち慈悲に基づいて行動します。真の悟りは、すべての存在が至上の解脱を得られるように支援するための、慈悲、同情、巧みな技(方便)に基づいた社会的行動に帰結すると言われています。悟りに基づく行動とは、無私の奉仕に他なりません。私たちはみな、真我、キリストの神秘的身体、法身(ダルマ・カーヤ)においてひとつなのですから、他人に奉仕することは、自分自身の真我に奉仕していることになるのです。キリストが「隣人を自分と同じように愛しなさい」と言ったとき、きっとこういう意味で言ったのに違いありません。「隣人を、あなたの真我と同じように愛しなさい」
私たちは自分のことは忘れて、喜んで他者のために尽くしているとき、悟りを表現しているのです。そしてよりよく他者の助けになれるように悟りを目指すのです。永遠の哲学の伝統では、この最後の真理を一番はじめに教えます。慈悲と言う動機を心に根づかせることができて初めて修行を行うことが許されます。チベット仏教のゾクチェンにおいては、他者のために悟りを目指すという動機を「菩提心」といい、悟りの種子になるのだといいます。他者のためという動機ではなく、利己的な動機で修行を始めると、ゴールに到達しないばかりか危険でさえあるといいます。他者のためにという動機は、悟りを得ると、自然な慈悲のエネルギーとして止むことなく世界に向かって流れ出すのです。この世界は慈悲のエネルギー、愛で作られているのです。奇蹟のコースでは、「愛だけが現実である」と教えます。
慈悲について永遠の哲学の賢者たちを代弁してウィルバーが言明しています。
「あなたが一度でも<ワン・テイスト>(一つの味)悟りを味わうならば、
最初ははかなく思えても、完全に新しい動機が自分自身の存在の深層から生起し、
あなたのすべての衝動に絶えざるそよぎ続ける雰囲気になるだろう。
その雰囲気が慈悲である。
あなたが一度でも<ワン・テイスト>を味わうならば、
そして存在の根本的な問題が光輝く太陽の自明の中に消えていくことを見るならば、
あなたはもはや心の奥底では同じ人物ではない。
そしてあなたは、他者も彼らの夢中歩行の苦しみから解放されること、
分離した自己の苦悶から解放されること、
時間と呼ばれる内在的な苦悩や空間と呼ばれる身の毛のよだつ悲劇から
解放されることをーついに、何よりもー望むようになる。
たとえ低次の利己的な動機(名声やパワー)があなたの道につきまとうとしても、
たとえ怒りや妬み、恥や哀れみ、自尊心や偏見によって
もっとあなたが成長できることを毎日きづかせられるとしても、
それにもかかわらず、それにもかかわらず、その下で、その周りで、その上で、
慈悲の心拍が鳴り響くだろう。
途切れない雲があなたのすべての歩みに配慮という雨を降らせるだろう。
そして良い意味で、この無情な親方によって、あなたは働かされるだろう。
なぜなら、あなたが、永劫の昔に、すべての魂が無限の大洋に解放されるまで、
この動機に支配されることを秘密裏に約束したからである。
慈悲があるために、あなたはさらに激しく努力するようになる。
慈悲があるために、あなたはひたむきになる。
慈悲があるために、あなたは懸命に、文字通り血を流して世界を突き動かそうとし、
涙があなたのヴィジョンを曇らせるまで骨を折って働き、
人生自体が乾くまで苦闘する。
あなたのハートの最も深い、最も深い中心で、
世界はすでにあなたに感謝している。」
引用
「グレース&グリット」 「ワン・テイスト」
(永遠の哲学・神秘主義関係 推薦図書)
叡智の伝統の表層構造ではなく、深層構造に着目し、全体的な要約を知ることのできる本を紹介します。
(1)永遠の哲学 全般
・「カミング・ホーム」レックス・ヒクソン
悟りを根源的な気づきと表現し、実践的な視点で書かれた傑作。トゥリーヤ(悟り)への実践方法は、霊的修行のエッセンスを示している。クリシュナムルティ、ハイデガー、スーフィー、ハシディズム、ラマナ・マハリシ、十牛図、易、ラーマ・クリシュナ、プロティノス。
・「意識のスペクトル」ケン・ウィルバー
特に第1巻は永遠の哲学に焦点を当てている。6章の叡智の伝統では、仏教、ヴェーダーンタなどを取り上げている。最終章の「つねにすでにあるもの」は永遠の真理について語り尽くしている。
・「忘れられた真理」ヒューストン・スミス
永遠の哲学の理論編。ウィルバーの先輩格。世界の偉大な宗教の権威的存在。
(2)神秘家に焦点を当てたもの
・「20世紀の神秘思想家たち」アン・バンクロフト
神秘家たちが何を語り、どのように人生を送ったかを伝えている。「私」とは誰か?が基本的なテーマとなっている。グルジェフ、チョギャム・トゥルンパ、カスタネダ、ダイアン・フォーチュン、テイヤールド・シャルダン、メハー・ババ、マザー・テレサ、トーマス・メルン、シュタイナー。
・「神秘主義の人間学」可藤豊文
現代が直面する問題の所在と原因を、神秘家の言葉から解き明かし、真の自由への道を指し示す。キルケゴール、アウグスチヌス、マイスター・エックハルト、十字架の聖ヨハネ、デイオニシウス・アレオパギタ、イブン・アラビー、ルーミー、シャンカラ、ロンチェンパ、慧能、空海。
(3)永遠の哲学の修行
・「覚醒への旅」ラム・ダス
瞑想者のガイドブック。霊的修行とはどういうものかを分かりやすく説明している。様々な伝統からバランスよく取り上げられている。
・「無境界」ケン・ウィルバー
意識発達のセラピー論、究極の意識に向けた章では、霊的修行はなぜ必要なのかが理解できる。無境界の自覚をもたらす指し示しは傑作である。瞑想として使える。
(4)永遠の哲学のアンソロジー、体験事例集
・「永遠の哲学」オルダス・ハクスレー
究極のリアリティは何か?古今東西の神秘思想家の心に残る章句をテーマごとに集め、ハクスレー自身の解説を加えた珠玉の箴言集。あらゆる伝統から抜粋している。
・「忘我の告白」マルティン・ブーバー
神秘家が神との合一体験を描写した体験集。スーフィー(ラビア、ビスターミー、アル・ハッラージュ、アッタール、)、プロティヌス、バレンティーノス、シメオン、キリスト教神秘主義(ヒルテガルト・フォン・ビンゲン、アシジのフランチェスコ、ノリッジのジュリアン、アビラのテレサ、ヤーコブ・ベーメ、)
・「宗教的経験の諸相」ウィリアム・ジェームス
宗教心理学の最初の試みとしての名著。神秘体験を現象学的、心理的に分析していく。人間の意識体験には何が可能なのかについての幅を広げてくれる。
(5)永遠の哲学の知的アプローチ
・「心理療法東と西」「タブーの書」アラン・ワッツ
西洋心理学と東洋の霊性が交流を始めた初期の頃の傑作。ウィルバーの先輩格。いかに現在の私たちの存在状態が不自然かを形而上学的に解き明かす。「あなたはそれである」を明快に解説。
・「神秘哲学」井筒俊彦
日本における神秘思想の権威。イスラムの神秘思想を日本に紹介した。本書は、ギリシャ哲学と自然神秘主義の関連性について。「意識と本質」もお薦め。
・「ターシャム・オルガヌムー世界の謎への鍵」ウスペンスキー
神秘哲学の古典。鋭利な思考を使って、存在の謎に迫る。現代の科学、哲学、常識的な物の見方を徹底的に疑うところから道は開ける。
(6)神秘学
・「神秘学入門」高橋巌
シュタイナーの研究者が神秘学の全般について語っている。入門編。
・「エゾテリスム思想」アントワーヌ・フェーヴル
ヨーロッパの深層に流れている思想の歴史。魔術、錬金術、神智学、ヘルメス主義、占星術、カバラ、薔薇十字思想、グノーシス。
・「世界の終末」ルネ・ゲノン
秘教的伝統の復活を目指す。近代の知のあり方を徹底的に批判する。