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「グレース&グリット」を解きほどく
ケン・ウィルバーの「グレース&グリットー愛と魂の軌跡」は真に驚くべき本である。誰かに一冊だけ紹介するとすれば、この本を私は薦めるだろう。誰もが一回は目を通してほしい本の一つだ。なぜなら、ここに書かれてある体験は、きわめて個人的であるが、全体を流れているテーマは誰もが受けとめなければならない普遍的な内容だからだ。人生の意味とは何か、癒しとは何か、そして死の恐怖を自覚したことがあるなら、この本は共に学ぶ機会を与えてくれるだろう。私自身この本によって大いに助けられ、死すべき運命の人間にとって何が可能なのかを思い知らされた。そして、タイトルどうり恩寵(グレース)と勇気(グリット)を与えられた。
ケン・ウィルバーは当時すでに、トランスパーソナル心理学の代表的な理論家として数々の書物を現し、心理学と宗教の分野に革命を起こしていた。そのウィルバーが、34歳の時に結婚をしたその相手トレヤが、一週間後に乳ガンとわかったところから運命は始まる。トレヤの日記を軸にウィルバーのコメントをはさむかたちで、5年間にわたる闘病生活が綴られていく。しかし単なる闘病生活ではなく、トレヤもウィルバーも霊的修行者であるので、「死」を自らの霊的な師として自らが変容すべく努めていく。
トレヤのガンは進行性のものでかなり悪質なものであった。そしてウィルバーは仕事をやめざるを得なくなり、介護に専念することになる。二人とも心理の専門であるとはいえ、夫婦間の感情のもつれや、仕事をしたいという気持ち、ガンと介護者としてのストレスなどがあり、関係性は最悪の事態を迎える時もある。この辺は、読んでいてもかなりつらくなる。ウィルバーの本はいつもそうだが、ただ読むだけではなく、読者に自覚を迫るように書かれているからなおさらである。
この本は読むためのものではなく、生きなければならないのものだと思った。先に読み進むためには、読者は自我を超えた変容を迫られるのである。当然、自我の防衛規制は自らを守るべく、本を投げ捨てたくなるかもしれない。しかし請け合おう、最後まで読み進めるなら、かけがえのないものを手にするはずである。ウィルバーはつらい事実だけをつきつけ私たちをおきざりにはしない。変容のための実践にもとりかかり、自分の理論とつきあわせながらわかりやすく説明している。
トレヤたちはガンを癒すべくあらゆる療法(正統医学から代替療法、心霊治療)を試していく。そして関係性を癒すべく、カップルセラピーをはじめ、心理療法に取り組んでいく。また瞑想や「奇跡のコース」といった霊的実践も積極的に取り入れ、身体、心、魂、関係性という全次元を考慮にいれた統合的アプローチを開始する。ウィルバーがその後の本で言っていた「全レベルへ同時にアプローチをする」実践を行っていたのだ。
またこの本は実践以外にも、ところどころでウィルバーの理論の紹介を行っているので、ウィルバーコスモロジーの入門としても最適である。意識の発達段階と病理、(キリスト教神秘主義、カバラ、スーフィー、禅、ヴェーダーンタ、チベット密教といった)永遠の哲学について、またセラピーと宗教の関係について解説している。スピリチュアルな道を歩むものにとって、どれも興味深い知識のはずである。地球に存在した賢者たちが伝えてきた叡智の伝統の偉大さを知り、それを継承していくうえでウィルバーコスモロジーは、欠かせないものとなるだろう。私自身は自らの人生のガイドとしてばかりでなく、21世紀の人類の行くべき羅針盤としても大いに役立つものと信じている。(特に、「進化の構造」以降の統合的ヴィジョンにおいて。)
トレヤのセラピーがすすむにつれて、スピリチュアルな問題意識がはっきりしてくる。それは、私たちにとっても共有できるものだ。一つは、在ること(存在)とすること(行動)のバランスであり、コントロールする方法と責任を負うすべを学ぶことに加えて、自分をゆだねる方法と、それを行う時期を学ぶことであった。またガンと共に生きる中で、生きる意志と死を受け入れることのバランスを見出すことでもあった。何かを達成することに価値を置きがちだったトレヤは、自分を変えようとするかわりに許そうとする「奇跡のコース」の教えを実践するに連れて、ただ在ることを受け入れていった。
もう一つは、「ダイモンの探究」と名づけた、自分の天命、使命、才能、天職といったものを探すことだった。ダイモンとはギリシャ神話にでてくる言葉で、「内なる神」を意味する。個人の内的な神性あるいは指導霊であり、個人の守護神や才能、運命も意味しており高次の自己でもある。トレヤはやがて芸術の中にダイモンを表現することになる。一方ウィルバーは執筆の中にすでに見出していた。しかし、ウィルバーの問題は介護のため執筆ができずそれを他者のせいにしていたためダイモンが幽閉されたことによるものであった。ウィルバーは言う。「だが、ダイモンには、奇妙で恐ろしい面もある。崇め、それに従って行動しているとき、ダイモンは実際に指導霊となる。内なる神が仕事にひらめきをもたらしてくれる。だがダイモンの声を耳にしながらそれを無視すると、ダイモンはデーモン、すなわち悪霊となる。つまり聖なるエネルギーと特質が退化して、自己破壊的な活動になると言われている。例えばキリスト教神秘主義では、地獄の業火は神の愛の否定、デーモンにおとしめられた天使にほかならないとされている。」
関係性が修復されるに連れて、二人は共通の師を探し始める。トレヤはヴィパッサナ瞑想、ウィルバーは禅を長年実践していた。二人は現代アメリカのすぐれた導師、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェはじめ、禅の老師、トーマス・キーティング神父といった人の話しを聞いたり、実践したりして、結局、チベット密教の師である、カル・リンポチェを共通の師として仰ぐことになった。カル・リンポチェからは、主に、慈悲の修行として,観音菩薩の瞑想とトンレンを教わり、熱心に行いはじめる。二人はこのトンレンの実践によって、根源的な変容を遂げたようだ。
トンレンは、自我への執着を取り去り、大いなる慈悲へとハートを開く技法として、チベットの伝統の中で大切に保たれてきたものである。
ウィルバーによるトンレンの説明を聞こう。
「トンレンとは、取り込み、送るという意味だ。苦しみを体験している人のことを瞑想中に思い浮かべ、息を吸う際、彼らの苦しみのすべてを、真っ黒で、煙やタールのような存在として観想し、それが鼻孔を通って自分のハートまで入っていくのを想像する。次に、息を吐き出すときには、自分の中のやすらぎ、自由、健康といったものすべてを、人を癒し解放する光としてイメージして、彼らに送るようにする。そして彼らがそれをすべて吸収して、完全な自由や解放感、幸福を味わっている様子を思い描く。
トンレンは自我の働きによる自己関心や自己防衛といったものを取り除くために考案されている。それは、自己と他者とを取り替え、それによって深いレベルで主客の二元論を切り崩す。トンレンは、まさに私たちが恐れる状況、つまり自分自身が傷つくような状況で、自己・他者の二元論の土台を壊すように求めている。人の苦しみに慈悲の心を向けることについて語るだけでなく、苦しみをすすんで自分のハートの中に取り込んで、それらの苦しみを解放する。
要点は実に単純だ。真の自己あるいは一なるものにとって、自己と他者は容易に交換しうるものだ。なぜなら、唯一の自己にとっては自己も他者も等しく、何の違いもないからだ。逆に言うと、もし自己を他者と交換できないのなら、一なるものの意識から締め出され、純粋な非二元的意識からも締め出される。他人の苦しみを引きうけようとしない気持ちは、自分自身の苦しみの中に人を閉じ込める。逃げ道はない。なぜなら、それは人を自分の卑小な自己の中に閉じ込めるからだ。
トンレンの訓練をある程度続けていくと、自分のものだろうと他人のものだろうと、苦しみに直面したとき、尻込みするということがなくなる。苦痛から逃げ回るのをやめ、それをただ喜んで自分の中に引きうけ、そして解放することによって、苦しみを変容させることができる、と理解する。自我を守ろうとする傾向を自分の中からすすんで追い払うだけで、真の変化が起こりはじめるのだ。世のあらゆる苦しみを感じ、あらゆる成功を享受するただひとつの自己があるだけだと理解することで、自分ー他者という緊張関係がゆるみはじめる。成功を享受しているのがただひとつの自己なら、どうして他人をうらやむ必要があるだろう。非二元的意識においては、他人の利益は私のものと同じである。大いなる平等意識が育ち、それが一方でプライドや傲慢さの元を切り崩し、他方で恐れや妬みの元を切り崩すのだ。」
トレヤをガンとの闘いから救い出したのもこのトンレンだった。トレヤはただ苦しんでいるからというだけで、あらゆる生き物にたいして深い関わりを感じるといっていた。苦しい状況を、苦しんでいるすべての存在とつながるための手段として使ったのだ。このような慈悲を持って苦しみに関わる修行が直接の動機になってトレヤは、「真に有益な支えとは何か?」というすばらしい文章を書いている。この文章は、ガンの原因は感情にあるとか、苦しみは自分で作り出しているのだ、といったニューエイジなどでよく言われる考えに対する挑戦でもある。苦しみの意味を自分で探求することは重要だが、側で支える人がこの手の理屈をこねることは、決して役に立つものではない。それは、人と自分との間に距離を置くための方法であり、理論がどんなに正しくても、結局のところ、これはこう言っているにすぎない。「ぼくにさわらないでくれ」と。
トレヤは化学療法を行うためドイツに渡るが、ガンは一向におさまる気配がなかった。死はもうそこまで迫ってきていた。日記にこう記している。
「私は恐れを自分のハートの中に導こう。開かれた気持ちで苦痛や恐れに向かい、それらを抱きしめ、恐れることなく、許すのだ。これがありのまま、今起こっていること。これが、あの無常と言う苦しみ。たえず、変化しつづける、という苦しみ。それが人生に驚きをもたらしてくれることもわかっている。それははっきり感じる。窓の外の鳥たちの歌声を聴いているとき、田舎道をドライヴしているとき、私のハートは喜び、魂が育まれる。そうした歓びを私は感じている。自分の病気を叩きのめしてやろうとは思っていない。自分自身が病気になることを受け入れ、病気を赦すのだ。回復のためにしなくてはならないことに関して、私はまだまだ積極的だ。しかしそれは闘いではない、怒りに満ちた闘争ではない。怒りや苦渋と共にではなく、決意と歓びと共に、わたしは歩んでいくつもりだ。」
トレヤは、自分の状況の深刻さを完全に理解していたにもかかわらず、人生に対する心からの歓びは日増しに強くなっていった。死をあるがままに自覚することは、今この瞬間を限りなく歓びに満ちて生きることにほかならないのだろう。死と今とは、両方とも未来をもたないということで同じ状態なのだ。過去と未来のない「今」だけが、唯一体験できることである。もし、死が訪れたら、そのときー今ではなくー死に対処すればいいのだ。禅の公案が紹介されている。ある弟子が師を訪ねて問いを発した。「死んだらどうなりますか?」すると師はこう答えた。「知らぬ」弟子は仰天して言った。「知らないんですか?師ともあろうあなたが?」「そうだ。だが、まだ死んではいないよ。」
化学療法を終えてからは代替療法に熱心に取り組んでいった。自宅での厳格な養生を要求するプログラムを一つ一つ真剣にこなしていった。このような淡々とした日常生活からトレヤはまた一段と深い内的変容を遂げていく。それは、「行動(何をするか?)」と「存在(いかに在るか)」の統合を意味していた。また、キリスト教が強調する情熱と、仏教の強調するとらわれのない心を調和させることでもあった。トレヤの心に、こうした変化の過程を完璧に表す言葉として浮かんだのは、「情熱的な無執着」という言葉だった。「結果に執着することなく、人生に対して情熱的に働きかけること」。私もこの言葉はすごく気に入った。「情熱的な無執着」生のすべてがこの言葉に含まれているといってもいいくらいだ。生き方の根本的な姿勢として常に心に留めておきたい。
一方ウィルバーの方はこの時期に、チベット密教のゾクチェンを伝授するリトリートに出かけ悟りの新たな扉を開いていた。ゾクチェンは世界中の偉大な叡智の最高の教えと同じものを伝えている。
ウィルバーがゾクチェンの要点を簡潔に述べている。「そもそもスピリットに意味があるとしたら、それは偏在し、あらゆるものに浸透し、一切を包含しているだろう。スピリットの存在しない場所などありえないし、あるとしたら、それは無限ではない。従って、スピリットは私たちのアウェアネス(意識)の中に、今、この場所に、全きものとして存在していなくてはならない。つまり、私たちの今現在の意識が、まさにこのままで、どんな意味での変更を加えることもなく、完全かつ完璧にスピリットに浸透されているのだ。そこで、ゾクチェンの師は指摘の教えと言われるものを使い、すでに悟っている心を指し示すことをする。教えは普通こんなふうに始まる。あなたの今の意識を一切訂正したり、修正したりせずに、ただそれに気づくこと。」
ウィルバーがその後もゾクチェンを修行の中心にすえ、霊的な成就を遂げていく様子は、「ワン・テイスト」という日記にも詳しく書かれている。チベットの秘密の教えだったゾクチェンは、複雑な観想や前行をあまり強調せず直接的な教えを中心にしているためか、欧米において人気を博している。
このチベットの教えとカル・リンポチェの加護が、トレヤの最後の日々を意味あるものとした。しかしまだガンの治療をあきらめてはいず、ゴンザレス療法に取り組む。そんな時トレヤはガンとの闘病生活について講演をする。そのときすでにトレヤの体には40の肺腫瘍、四つの脳腫瘍があり、主治医からは余命4ヶ月と言い渡されていた。それでもトレヤは生き生きと話し、明るく輝いていたことは聴衆の誰もが感じることだった。トレヤは言う。「もう死を無視することはできないからこそ、私はいっそう、生命に心を配るのです。」
正統医学より代替療法を選んだトレヤに対して、医者たちは死を否定するために正統医学を拒否したと確信していた。そして何度もしつこく死に対する不安はないのかと訪ねた。
「トレヤ、死が怖くないですか?」
「いいえ本当に怖くありません。」
「どうして」
「それは、私が自分の中にあり、また誰の中にもある全一なる存在とつながっているのを感じるからです。私が死ぬと、その中に溶けて戻っていくんです。それは怖いことではないわ。」
彼女が自分にとっての真実を実に明快に話したので、ついに医者は信じたようだった。そのとき彼は、感極まって、こんなことを言った。とても感動的だった。
「トレヤ、あなたの言葉を信じます。あなたみたいな患者を診るのは初めてだ。あなたには自己憐憫がない。ひとかけらも。こんなことは、今まで一度も体験したことがありません。こう言ってよければ、あなたを診察できて、本当に光栄です。」
トレヤは手を伸ばして彼を抱きしめ、満面の笑みを浮かべてこう答えた。
「ありがとう」
トレヤは肺の腫瘍の増加のため酸素吸入を常にしなければならなくなった。そして脳の腫瘍は視覚中枢を刺激し、左目が見えなくなってしまう。それでもトレヤは、毎日歩行器を使って、酸素の管を肩に背負ったまま、五キロを歩いた。トレヤには自己憐憫や恐れなど微塵もなかった。だが、あっさり往生するつもりもまたないのだった。その光景はウィルバーに禅の公案を思い出させた。
ある弟子が禅師にこうたずねる。
「絶対の真実とは何ですか?」
すると師は、ただこう言うのだ。
「歩みつづけよ!」と。
絶対の真実に終わりということはない、歩き続けることの中に絶対の真実は現れるのだ。
死が近いかもしれないと感じたウィルバーは二人にとっての師、カル・リンポチェとの絆を確かなものにしようと会いに行った。悟った師との絆は修行を完成させ、死にゆく過程で大いに助けとなるからだ。
ウィルバーは永遠の哲学が教える死の体系に関して説明する。この説明は真剣に聞く必要がある重要な問題だ。
「偉大な叡智の伝統はいずれも、実際の死の瞬間を極めて重要かつかけがえのないチャンスだと主張しているが、それは以下の理由による。つまり、死の瞬間、人は粗大な身体を脱ぎ捨てるため、より高次の段階、微細ないし元因レベルが、死にゆく意識の中に一瞬のうちに現れる。もし、このより高次の霊的な次元を認識できれば、即座に悟りを得ることができる。そしてこれは、不透明で障害の多い肉体の中にいる時よりも、はるかに容易に行うことができるのだ。
チベットの死の体系は最も完全に近いものだと思われるが、根本的には、世界のどの神秘思想の伝統とも一致している。
人間には大きく分けて、三つのレベルないし次元がある。それは粗大(肉体)、微細(精神)、そして元因(霊)のレベルだ。死の過程において、存在の大いなる連鎖の中で肉体、つまり、感覚や知覚などの低次のレベルがまず消滅する。肉体が消滅すると(その機能が停止すると)、精神や魂といったより精妙なレベルが現れ、次に、実際の死の瞬間にあらゆるレベルが消滅すると、純粋な元因レベルのスピリットが死にゆくものの意識の前に一瞬光を放つ。もしこのスピリットを自分の真の本性だと認識することができれば、即座に悟りが得られ、神性の中へ、自らも神性なるものとして、永遠に還っていくのである。
この認識が即座に得られない場合、人(魂)は「バルド」(中有)に入りこむ。一種の中間地帯だ。この状態は数ヶ月続くと言われている。そこで微細レベルが生じ、最後には粗大レベルが現れて、新たな人生を始めるために、肉体をまとって生まれ変わる。そして生まれ変わる人間の魂は、前世で貯えた徳や智慧を一緒に携えていく。転生やバルド、あるいは死後の状態についてどう考えようと、このことだけははっきりしている。すなわち、あなたがほんのわずかでも、自分の中に神聖なるものの性質を帯びた部分がある、つまり、限りある肉体を越えた存在であるスピリットにどこかでつながっていると信じているのなら、死の瞬間が重要になるということである。なぜなら、肉体が滅びた後も、もし何かが残っているとしたら、死の瞬間こそが、それを見つけ出す時だからである。違うだろうか?
もちろん、臨時体験やその研究も、こうした主張を裏付けているようだ、しかし、私が強調したいのは、ただこの死と消滅のプロセス全体を正確にリハーサルする特別な瞑想の訓練があるということ、そしてこれらの訓練はトレヤが全宇宙に溶けていく瞑想と呼んで、訓練していたものに他ならない。私が再びリンポチェとつながることを望んでいたのは、そうすることで私の心が消滅し拡大していく準備を整え、トレヤが訓練したとおりに、トレヤが実際に溶けていくのを助けることができるようにしたかったからである。伝統によれば、悟りを達成した師はすでにその心が消滅ないし超越しているため、死に行くものがこの師との心の絆を確立しているなら、死の過程で大いなる助けを得ることができる、という。」
ウィルバーが戻ってくるとトレヤは脳腫瘍の膨張による耐えられない苦痛と向き合っている最中だった。これ以上良くなる兆しがないことは明らかだった。それでも自分のプログラムを続け、歩行器で一日数キロの歩行訓練も続けていた。そしてついにトレヤはウィルバーと向き合ってこう言った。
「ねぇ、あなた。潮時だと思うの。もう続けたくないわ。逃げ出したいからではなく、もし酵素が効くとしても、もう間に合わないからよ。」
ウィルバーは限界が来ていることを知りつつも後一週間がんばってみようと言った。この最後の一週間はトレヤが私たちに情熱的な無執着を身をもってみせてくれた一週間だった。ウィルバーが感動的に語ってくれている。
「トレヤは約束を守った。そして一週間の間、猛烈に、そして急速に増大する断末魔のような苦しみの中を突き進んでいった。たとえばそれがどんなに消耗することだとしても、ひとつたりとも手順を省くことなく、完全に自分のプログラムをこなしていったのだ。彼女は、気づきを保ち、目覚め、今ここにいるために、モルヒネの投与を拒否した。彼女は頭を昂然と上げ、よく微笑んだ。装ってそうしたのではなかった。「歩き続けよ!」という禅の公案を身をもって実践していたのだった。彼女はそうすることで、勇気と光明に満ちた無執着とを示していた。このことは、少しの誇張もなく言うことができる。今までこれほどの勇気や平静さを見たことはないし、これからも決してないだろう。
週の終わりの夜、彼女はやさしい声で言った。「もう逝くわ」
この特別な瞬間、私はただ一言、「いいよ」と言っただけであった。それから彼女を抱えて2階へ運んだ。
「ちょっと待って。日記に書きたいことがあるの」
彼女の日記をとり、ペンと一緒に彼女に渡した。彼女は、大きなきれいな字で日記を書き留めた。
「必要なのは、恩寵(グレース)と・・・そう勇気(グリット)!」
気高いゲーテの作品に、こんな美しい一節がある。「熟したものは、みな死を願う」。トレヤはすでに熟していて、死を望んでいた。彼女が日記を書くのを見守りながら、私は口にする必要のないことを考えていた。これは、彼女の人生全体を要約する言葉だー恩寵と勇気ー。「あること」と「すること」。平静さと情熱。明け渡しと意志。完全な受容と猛烈な決意。こうした魂の二つの側面、彼女が全人生をかけて闘いとり、そしてついにひとつの調和した全体性に統合することができた、この二つの側面ーこれが、彼女が後に遺そうとした最後のメッセージだった。」
私には「歩き続けよ」という言葉がとても心に響いた。トレヤが酸素ボンベをかついで歩いている光景を想像する。自己の完成とは、ゴールにあるのではなく向かっていくことのひとつひとつにあるのかもしれない。情熱的な無執着で日常生活を行うこと。禅の人達が言う「薪を割り、水を運ぶ」生活である。
そして、この本の最終章、「輝く星のために」は、トレヤの最後の驚くべき48時間についての貴重な記録が綴られている。死ぬ瞬間、そして死んだ後について。悟りの探究者にとって修行は死後も続く。医学や常識的な知識では何もすることができないこの状況において、チベット密教は本領を発揮するのだ。トレヤはマーラーを握って観音菩薩のマントラ「オーム・マニ・ペメ・フーム」と「神に委ねます」という祈りを唱え始める。そしてケンや家族、友人の見守る中で、最後に発した言葉は「ありがとう」だった。そして皆がトレヤの体に触れて、別れの言葉をささやいた。
「トレヤはマーラーを握り締めたままだった。このマーラーはカル・リンポチェとの瞑想リトリートの折に彼女が手に入れたものだった。そしてそのリトリートで、彼女は悟りに至る道として、慈悲を育むことを誓ったのだった。その時、霊的な名前がリンポチェによって彼女に授けられた。それは<ダーキニー・ウィンド>悟りの風という意味だった。」
この名前どおりその日は嵐のような風が吹いていたという。偉大な魂を運ぶには強い風が必要なのだとウィルバーは感じた。不思議なことに死後トレヤに送られてきた手紙には、「風」という言葉が多く見られた。誰もが何かを感じていたのだ。
ホスピスの女性が入ってきてまもなく死ぬだろうと言って帰った。
「僕は水を飲もうと、部屋を出た。すると突然、トレイシーがやってきて呼んだ。僕は階段を駆け上がり、ベッドまでジャンプして、トレヤの手を握った。家族全員と親友のウォーレンが部屋に入ってきた。トレヤが目を開け、部屋の中の一人ひとりを穏やかな視線でみつめ、それからぼくをまっすぐに見つめた。それから目を閉じ、そして、彼女は呼吸するのをやめた。
そこに集まったメンバーの誰もが、完璧に目覚めてトレヤのためにそこにいた。それから、部屋中が泣き声に包まれた。ぼくは彼女の手を握り、もう一方の手を彼女の心臓に当てていた。全身がめちゃくちゃに震え始めた。とうとうこの時が来てしまったのだ。体の震えは止まらなかった。」
ついにその時が来たのだ。二人が長年修行してきたことを試すときが。その直後ウィルバーは、体を震わせながらも「チベットの死者の書」として知られる「バルド・ソドル」を読んで聴かせる。バルド・ソドルとは、聴いて解脱するという意味で、死後師匠かあるいは修行仲間が呼んで聴かせ死後の道案内もしくは悟りを得させようとするものだ
ウィルバーは何度も繰り返し朗読する。
「あなたの根源的な<心>である、クリアライト(光)に気づきなさい。今や、あなたは、光明に満ちた<スピリット>とひとつであることを認識するのだ。」
そしてトレヤはまさにウィルバーの声によって悟りを得た。
死は私たちにとって敗北ではなく、チャンスである。そのことをトレヤは教えてくれた。誰にも公平に訪れる死、私たちが最後に出会う死、この死を忌み嫌う現在の社会は、私たちに人生の意味や価値について納得のいく答えを与えることは不可能である。どうせ死んで灰となり終わるのなら人生にどんな目的があるというのか?常識的な考えを突き詰めていくと、ニヒリズムに陥ってしまうのも当然である。しかし、真実はそうではないのだと、神秘家たちは断言してきた。そして現代においても私たちはトレヤをはじめ、死に取り組み死を超えた意味を見出した人物がいることに気づくべきである。そしてその人たちがどのような実践によりそこまで行きついたかを知り、自分で試してみることができるのである。世界の偉大な叡智の伝統が見出してきた死の秘密が今やあらゆる人に開かれているのだ。
偉大な智慧に至る道は、単純に他者のために何かをするということで開かれてくる。あらゆる深遠な教えや哲学、瞑想法に接してきたウィルバーが、自分自身の解放に最も寄与したのは、シンプルに「愛する」ということだった。
「彼女との最後の半年は、まるで可能な限り互いに奉仕しあうことを通じて、スピリチュアルなハイウェイを一緒に高速でドライヴしていたかのようだった。ぼくは最後になってようやく、不平や不満を言わなくなった。ことに、彼女に仕えるために五年間、自分の仕事を顧みられなかったことに対する不満を(もっとも、介護者が不平をいうのは、なんらおかしいことではないが)。そうした不満を完全に手放してしまったのだ。全然後悔などしていなかった。ただ、彼女の存在そのものと、彼女に仕えることの、途方もない恵みに感謝していた。
そして彼女も、自分のガンがぼくの生活を台無しにしてしまったとこぼすのをやめた。なぜなら二人は心の深いレベルで、この苦境から何が生じようとも、ぼくは彼女を見守る、という契約を交わしていたからだった。それはまた、深遠なる選択でもあった。ぼくたちは、このことを明確に理解していた。ぼくたちはシンプルかつ直接的な方法で互いを助け合い、互いの自己を交換しあった。だからこそ、自分や他者、<わたし>とか<わたしのもの>といった観念を超越した、永遠のスピリットをかいま見たのだった。」
ウィルバーは、トレヤの求めに絶えず応えることを通じて、一生分のカルマが燃やし尽くされたように感じたと言っている。
「グレース&グリット」は読む人すべてに悟りへと向かう心を目覚めさすことだろう。それは菩提心といい、悟りの種子と呼ばれている。この種子を育てるのは個人の実践にかかっている。しかし、いったんこの種子がハートに落ちたら、種子は成長せずにはおれないこともまた事実のようである。
「グレース&グリット」によって私たちは、分離した自我、苦悩する自己の死への引き金をひくことになる。もちろん人生には様々な誘惑や気をちらすことが山のようにあるので、時には道を逸れていると思うこともあるが、そんな時でもスピリットはそばに寄り添い種子から芽を出させようと働いているはずである。
「グレース&グリット」を読んだからといって、苦しみがなくなるわけではない。むしろ、耐えざる苦しみに心を開き、それらを慈悲を培うための機会にするのだ。慈悲と言う宝を生むからこそ、苦しみは、「恩寵」であると言われてきたのだ。
「勇気」を持って、苦しみを、ハートへ迎え入れてみよう。
そして、この神からの贈り物に対して、感謝を持って答えてみよう。
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