私が影響を受けた本

ケン・ウィルバーの「グレース&グリットー愛と魂の軌跡」

私はケン・ウィルバーの著作すべてからインスピレーションを与えられてきたが、特に「グレース&グリット」は深い所で揺り動かされる本だった。ケン・ウィルバーと妻のトレヤが共に立ち向かったガンとの闘病日記で構成されるこの本は、一人の人間が人生で出くわすあらゆる困難に対する一つのチャレンジである。そして死と向き合わざるをえない状況となった乳ガンのトレヤが、ケンや友人、導師、書物の力を借りて、霊的に成長を遂げていく真実の物語である。避けることのできない死を前にして、いかに気高く生き、死を受容するかが全体を通したテーマになっている。トレヤはそれに一つの回答を見出した。「情熱的な無執着」。人生を情熱的に生きるが、生に固執せず、あるがままに身をゆだねること。

トレヤが様々な葛藤、医療、夫婦の問題、天職の問題、霊性の問題を探求していく姿は、時に読むのがつらくなることもあるかもしれない。それだけリアルに描写されている。読者は、単なる観察者ではいられなくなり、一緒になって自らの内面にも気付かされることだろう。そして読み続けるには、私たち自身の意識の成長が必要であることを感じさせられる。つまりこの本は知識を増やすための本ではなく、生きるための本なのである。

難病を患っている人、死の恐怖を自覚している人、関係性の悩み、人生の意味の喪失を感じている人、霊的探究者にとって、「グレース&グリット」はまさにタイトル通り、恵みと勇気を与えてくれるものになるはずである。またケン・ウィルバーが書いた、「介護者」は、大変な作業にもかかわらずあまり省みられない介護者にとって参考になるはずである。

病と死は誰にも公平に訪れる。だからこそ私たちは病と死にいっそう注意を向け、それらの真実を見出さなければならないのだ。
病と死は誰にも公平にいつ訪れるかわからない。だからこそ今、病と死の探究を始めなければならないのだ。
死は誰にも公平に心身と人生を根こそぎ奪い去ってしまう。だからこそ心身と人生を超えたものをみいださなければならないのだ。

ケンとトレヤは、世界中の偉大な神秘家と同じ道を選択した。
つまり、病と死を霊的な師として、死を乗り越えるものを探究したのだ。
そして二人が見出したのも、神秘家たちと同じ真理だった。
「愛」が死を乗り越えるのだと。

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スティーブン・レヴァインの「めざめて生きめざめて死ぬ」
現代のアメリカにおいて死にゆく人々とのワークを行ってきた第一人者であるスティーブン・レヴァインの、深い体験と洞察に満ちた一冊である。ホスピスのように痛みを和らげ穏やかな死を迎えさせようとするだけでなく、死と真剣に向き合い、死の意味を探求することにおいて自らも成長し、最後には死さえも超えていこうとする気高い試みである。この本は実際のワークの仕方や、瞑想エクササイズものせており、アメリカでは死のバイブルとして、死を自覚した人たちの間で広まっている。レヴァインは死を自覚することは生をより生き生きとさせるといい、死にゆく人だけでなくすべての人に死のワークは役立つと主張している。まさにその通りだと思う。

実際死は私たちにいつ訪れるかわからない。「ならば今、死のワークをして、死に備えなくていつやるというのか」とレヴァインはいう。そして、死が訪れる前に、過去のこだわりを捨てて、許しや感謝、愛を分かち合うことをすべきだという。レヴァインは死の間際にいる人が、自発的に過去の執着を捨てて心を開き思いを分かち合っているのを数々と見てきた。それゆえ、分かち合いを死の間際まで待つのではなく今ここでしたらどうかとアドヴァイスしているのだ。

死と取り組んでいると心を開いて何でも受け入れられるようになる。そしてそれだけでなく、ここがすばらしい事だが、他者のために何かをしなければと思うようになるみたいだ。死が間近にせまっていながらなおも他人を気遣い、人のために何かをしたいという自発的な慈悲を現す人たちがこの本にはたくさん紹介されている。死の自覚がすべての存在の普遍的な苦しみに目を開かせ、慈悲が心に芽生えるのだろう。レヴァインの死のワークはこの慈悲を根づかせる、または慈悲を表現するのをためらう心の障害を取り除くためのものであると言える。

レヴァインは主に仏教的な瞑想を主体に行っている人であるが、この本ではあまり専門用語を使わず、誰にも入っていきやすい言葉で書かれている。他にラマナ・マハリシやニッサルガダッタ・マハラジ、ニーム・カロリ・ババといった覚者や共に活動していたラム・ダスやキュブラー・ロスなどの影響を受けており、ワークや瞑想法もバラエティーに富んでいる。

死を超えるとは、本来の心(仏性や神性)を認識することである。本来の心を気づきとか無限の空間、あるいはハートといった言葉で表現し、常に読者の心をその境地に促している。レヴァインの表現の仕方は、私自身とてもなじみやすく気に入っている。気に入ったフレーズがあったらしるしをつけるようにしているが、この本はページをめくるたびに心を昂揚させるフレーズにあうことができる。それが、死にゆく人の体験と共に語られているので、なおさら心の深くまで浸透していく。
死の体系と言えば「チベットの死者の書」が有名であるが、これを現代的な言葉と表現で紹介している死後の誘導瞑想は特筆すべきことだろう。死後における尋常でない意識状態をくぐり抜けていくのに、途方もない助けをもたらすワークとなり得るのではないかと思う。また死を看取る側でも、死を前にして無力に塞ぎ込むのではなく何か役に立てることがあることを知っていることは何と励みになることだろう。

死の宣告は私たちの人生を台無しにしてしまうと思う人が多いのではないだろうか。しかし、死の扱い方、心の姿勢を変えれば、死ほど自己を成長させ人生に意味を持たせ、究極的にはやすらぎを与えてくれるものはないと、この本を読んで感じた。死が問題なのではなく死に対するイメージ、考え方が問題なのだ。死に至る犯罪や自殺、高齢者やガン患者が増える中で、私たちの社会はもはや死を拒絶してはいられなくなると思う。そういった意味でレヴァインのワークは日本においても計り知れない価値を持つに違いない。私自身は、個人的にレヴァインのワークを試しながら、いつかグループでワークをしていきたいと願っている。

「死に際しては、どのように生きてきたかが問われる」とレヴァインは言う。人生の一瞬一瞬の出来事に心を開くことが、死に心を開くことにつながるのだ。自分の兄に肺腫瘍があるのが分かった女性が問いかける。「私は何をすべきでしょう?愛する人がこれからきわめて困難な状況を体験するかもしれないとき、私はどうやって彼を助けることができるでしょうか?」レヴァインの答えはこうである。「あなたが他の一切の存在に対してやっているのと同じやり方で、病気の人に関わる事」

「我々すべてが共有している真理を敬いつつ、心を開くこと。人を二元性に落ち込ませている分離を解消するように努め、相手と一体となること。助けるのではなく、ただ在ること。分離という条件付けられた幻想を理解し、太古からのその執着を打破すること。あなた方どちらもが死ぬことを許すこと。分離した身体や心という想像を超えて、存在の共通の地盤に立ち返ること。

自分自身と共にいるのと同じやり方で、死にゆく人とも共にいることだ。心を開き、誠実に、思いやりを持って。相手の喜びや苦痛をその人と同じ受容力と慈しみをもって積極的に受けとめるハートをもち、耳を傾けながら、ただそこにいるだけ。死を生から分離したり、観念や物事の影のなかに生きるのではなく、展開しているものを直接に体験する心で。痛むときには、痛むまま。幸福なときは幸福なまま。物事を変えようとしたり、何かあるいは誰かを、あるがままとは別のものにしようとしないこと。ただ、その瞬間が提供せねばならない真理を聴くだけでいい。」

ソギャル・リンポチェの「チベットの生と死の書」

チベット密教の最良の入門書と言えるこの本は、チベットのラマたちが世界の人々に贈る宝のような智慧で溢れている。師や教えに対する敬愛の念といったスピリチュアルな道の基本的な態度について、チベットのラマたちはどんな立場に立とうと、またいかなる境地に到達しようと変わらぬ心構えでいることは見習うべきことである。ソギャル・リンポチェは、ニンマ派のゾクチェンの流れに属しているが、現代アメリカにおいてチベット仏教を広めた代表的な人物である。本書は、チベット仏教を伝えると共に、仏教と言う枠を越えて人間の生と死についてラマが示した普遍的な教えでもある。従って、人生の意味とは何か?、幸せになるには?、死とは何か?といった疑問に答えてくれるはずである。そしてそれらを見出すための道も示してくれる。

チベットの人々は何千年も生と死の秘密について探求し、その知識は師から弟子へと正確に伝えられてきた。このような智慧は世界中の伝統に見出されるものと同じであるが、それが現代に至るまで完璧に継承されてきているのは稀であろう。霊的な智慧をないがしろにする近代社会が届かない孤高の地だからこそ守り伝えられてきたのかもしれない。20世紀のチベットには、人間の意識の到達点とも言える悟りとか解脱と言った意識状態を成就し、自ら仏性を体現していたラマがおり、ソギャル・リンポチェはそのようなラマたちに育てられ智慧を授かっていった。そして今やその智慧がソギャル・リンポチェ(他にもたくさんいらっしゃるが)を通して全世界に伝えられている。特にアメリカ西海岸では爆発的な人気を呼んでいる。リチャード・ギアをはじめハリウッドにはチベット仏教支持者が大勢おり、ソギャル・リンポチェは映画「リトル・ブッダ」に出演している。

死ぬ瞬間の体験については、キュブラ・ロスやレヴァインが伝えているが、この本は悟りを成就した人が、実際に死ぬ瞬間に死を超えたことを身をもってみせてくれる。ラマたちは言葉の本当の意味で死を超えたのだ。これは現代の私たちにとって驚くべきことであり、一つの挑戦でもある。人間の可能性とは想像を絶するほどの域まで達することができるのだ。ソギャル・リンポチェはそのことを断言し納得させてくれる。なぜなら「チベットの死者の書」(バルド・ソドル)を題材に、わかりやすい表現で克明に死の過程と死後の道案内をしてくれるからだ。チベット密教の伝統にはこうした膨大な体験の記録と実践方法がある。これらは望めば誰もが使えるものだ。実際、ケン・ウィルバーなどは同じ実践をし、同じような体験、洞察に行きつく事を確認している。

私はたった一つの問いが問われなければならないと思う。それは「死によって破壊されない人生の意味など存在するのか」という問いだ。もしあるとするならそれこそ、人生のすべてをかけて手に入れなければならないものだと感じる。「グレース&グリット」と「めざめて生きめざめて死ぬ」とこの「チベットの生と死の書」は、私にとってもっとも影響を受けた3冊であると同時に、生と死を真剣に見つめてどのように生きるべきかを求めているすべての人にとっても貴重な3冊であると思う。私のライフワークはこの3冊に捧げられる。

クリシュナムルティの「自我の終焉ー絶対自由への道ー」
私が25歳の時、図書館でクリシュナムルティを読んだ時、初めて私たちとは全く異なった生き方、異なった意識で生きている人物が実際に存在していることを直感的に感じた。インドで生まれたクリシュナムルティーは少年の頃に、神智学者リードビーターに発見され、神智学運動において世界教師になるべく教育された。子供の頃から利己性がなく純粋だったクリシュナムルティーは、霊的な資質をどんどん伸ばし洞察を深め、ついに悟りを得る。しかし、「真理は組織化しえない」として神智学運動からは離れ、その後半世紀に渡り一人で世界中で対話や講演をして回ることになる。結局、リードビーターの洞察どおりクリシュナムルティは誰もが認める光明を得た人物として、世界中の探究者に影響を与えることになった。

クリシュナムルティの教えは、いかなる伝統や権威も排除し、平易な言葉で根源的な気づき、自覚を指し示す、直接的な道である。また、物事をあるがままに見る受動的な凝視、あるいは無選択の気づきを通して洞察を深めていく知性的なアプローチをとるため、主に西欧の神話的な宗教やオカルトを嫌う探究者の間で広まった。私も日本の若者の大多数と同じだと思うが、宗教や霊という言葉に否定的なイメージを持っていたので、信仰でなく問いかけを重視し、権威的に答えを示すのではなく、自分で答えを導き出させようと一緒に探究していこうとする態度には強く惹かれた。

既成の宗教から自由で科学的な姿勢を重んじるクリシュナムルティは、作家のオルダス・ハクスレーやニューサイエンスのデビッド・ボームなどに影響を及ぼし、ケン・ウィルバーもこの人物から道を歩み始めたと言っている。日本においても翻訳本はかなり出ており、どの本のどの箇所を開いても同じ洞察、同じ真理が語られている。「キッチン日記」はその中でも独特で、講話集ではなく、普段の昼食時のクリシュナムルティを描いており、ジョークをよく飛ばしているのがおもしろい。

この本の原題は「最初にして最後の自由」というタイトルでクリシュナムルティの最も初期の本である。気づきの探究を行うための指摘はすべて網羅されているのではないだろうか。悟りや聖なるもの、クリシュナムルティは「名づけえぬものと」か「それ」、「計ることのできないもの」という表現を使っているが、その質を味わいたいなら「クリシュナムルティの瞑想録」がいいだろう。

「生と覚醒のコメンタリー」は自然描写と探究者との対話からなる異色の本である。探究者の質問は何であれ、その質問に答えるのではなく、質問自体に気づきを与えられ動機を見ることをすすめられる。「答えは問いの中にある。」からである。そして自己認識、あるがままの事実を刻々と気づくことが解放への道となる。しかし、これはどこかへ向かったり、何かになろうとする道ではなく、努力のいらない道であることは常におさえておくべきである。私たちは「途なき途」を行くのだ。

スピリチュアルな道はとかく超常現象や神秘的な力に目を奪われがちになるが、自分が「精神の物質主義」(物を集めるように霊的な知識を集め、達成を競い合うこと)に陥っていると思ったら、クリシュナムルティの言葉が私たちを正しい道に戻してくれるはずである。しかし、クリシュナムルティが言うようにトータルに、全身全霊で自己や苦しみを見つめ、その場で一瞬のうちに自我を死なせて自由になりなさいと言われても、なかなか難しい。そこまで準備の出来ている魂はそんなにはいないだろう。従ってクリシュナムルティの非二元的で直接的な教えは、最高の真理を伝えていると思うが、それを受けとめるために準備の修行が必要になるのだろうと思う。それでも真理の言葉に触れていくことは、その言葉が種子となって花が開くために重要であろう。とにかく心の深い所、潜在意識に真理の言葉をどんどン放り込んでいけば、いつか表に現れてくるはずである。

ナムカイ・ノルブ・リンポチェの「虹と水晶」

私がナムカイ・ノルブ・リンポチェにゾクチェンの伝授を受けたのは、H15年の5月だった。スウェットで現れたリンポチェはとても気さくで迫力のある人だった。個人的に質問をしたがそばにいるだけでその存在に圧倒されてしまった。形式ばらない伝授と、必ずしも加行を前提とせず直接的な教えを重視するナムカイ・ノルブ・リンポチェは、世界中に悟りを求める多くの弟子を抱えている。ゾクチェンはチベット仏教の中でも最も高度な修行とされ長い間秘密にされており、20世紀後半になって少しずつ開かれるようになった。通常は五体投地や観想法などの準備の修行をしてから行うことが許される。ゾクチェンの準備的な修行に関しては、中沢新一さんが「虹の階梯」において紹介している。本行に関しては、この本以外にも、永沢哲さんの翻訳で何冊か出ており、どれもゾクチェンの本質についてわかりやすく書かれている。

この本が独特なのは、ナムカイ・ノルブ・リンポチェの幼少期や修行時代、成就者の話を語っているところである。霊的な体系というのは、どのように伝えられたか、その源泉は何かということが非常に重要なので、繰り返し血脈については語られている。チベット人は中国の侵攻により、国を追われてしまうが、その当時の生々しい体験やラマたちがどのように最悪の状況に対処したかも描写している。

ナムカイ・ノルブ・リンポチェは修行時代、師と夢の中で交流し指示を受けたり智慧を授かったりしているが、夢の中での場所が実際に現実の世界でも存在していることを確認したりしている。そんな体験話が多く語られている。ゾクチェンは、リクパと呼ぶ心の本質、本来の自己に気づき、常にその自覚を保つことが基本とされている。ゾクチェンの最初の師、ガラップ・ドルジェは「まず初めに心の本質に導く」と言っている。これは、「チベット密教の瞑想法」において紹介された「昼と夜のサイクルー原初のヨーガをすすむー」において顕著である。しかし、ゾクチェンの修行は師からの伝授がないと結果を生まないと言われており、読んで実践をはじめても心の本質に気づくかどうかはわからないという。現在はナムカイ・ノルブ・リンポチェのグループのHPもあり、定期的にビデオ伝授を行っているようである。

ケン・ウィルバーもゾクチェンの灌頂を十数回受けたことにより、根本的な変容が起こったと言っているように、現代においても実際の結果を残しているように思う。私自身日本においてゾクチェンの修行に関わって何らかの成就に至った人に会って話しをしたりしたが、どの人も深い変容が起こったことを納得させられた。悟りとは過去の神話ではなく、現在の事実なのである。

ケン・ウィルバーの「無境界」
24歳の時、私はこの「無境界」を読んでスピリチュアルな探究を始めた。94年の12月だった。会社勤めに人生の意義を見出せなかった当時、全く異なった生き方を必死で探し求めていた。心理学や精神世界、ニューエイジにも触れたが、ある程度は満足するが、まだこれではないという気持ちがあった。そんな探求を1年間続けた後、やっとケン・ウィルバーにたどりついた。生まれて初めて、「永遠の哲学」という人類の叡智の伝統が示す、深遠な真理の言葉に接した瞬間だった。

人生や世界には、今まで全く教わってこなかった深い真実があり、悟りとかスピリット、神と様々な名前で呼ばれてきたが、要するに私たちの真の自己にほかならないのだ。そして世界は個別のバラバラなものが寄せ集まって偶然に出来あがっているのではなく、すべてつながりあっており要するに世界と私、私と他人を分け隔てる境界はないのだ。そのことを「無境界」は深く納得させてくれた。「無境界」と「意識のスペクトル」を立て続けに読んだが、ウィルバーを読む前と読んだ後では、まさに世界は違って見えた。それだけ衝撃的だった。と同時に救われたという感じがあった。深い所で何かが変わったのだ。

ウィルバーの書き方は、単なる知識を与えるだけでなく、読んでいるその場で「無境界の自覚」を促そうとするので、それ自体が瞑想になっており、心の成長を誘発する。そのため、まさに読む前と読んだ後では自覚の仕方が変わるのだ。新たな世界が心の視野に現れたのだ。苦しみがなくなったわくではないが、もはや人生を無意味に感じることはなかった。そして苦しみとはありもしない自己と他者の境界を作り上げた結果必然的に起こってくるもので、究極的には幻想であると「永遠の哲学」は主張する。苦悩している分離した自己は単なる錯覚で、本来の自己は常にすでに悟りの状態にあり完璧なのだ。

ウィルバーはよく「常にすでに」という言葉を使うが、この「常にすでに」が私を救ってくれた。世界の悲惨な状況を見るにつけ、苦しみこそ真実であると思っていたが、まさにそれこそ現実ではなく夢をみているにすぎないとは、驚きと同時に「よかった」という安堵感があった。ブルーハーツという学生時代によく聞いていたロックバンドの歌詞に、「見てきたものや聞いた事、今まで覚えた全部、でたらめだったらおもしろい、そんな気持ちわかるでしょう。」というのがあるが、まさか本当にそうだったとは。

しかし、幻想は幻想と見破るまでは現実であり、夢を見ているときには現実だ思うように、私たちは目覚める努力をしなくてはならない。「苦しみは幻想である」という知識だけでは、完全に見破ることはできない。物事を分けて見る見方は、心の深い所まで浸透しているのでそう簡単に無境界の自覚を持つことはできない。この本は、なぜ私たちが「常にすでにつながっている無境界の領域」から境界を作り上げ、苦しみの世界を作ってきたかを詳細に語っている。世界と一つだった自己が、自己と世界を分け、次に自己を心に限定し心と体を分断し、そして次に心の中で否定的なものを分断して、自分の投影した影におびえる仮面として生きるようになってしまう。この過程は、聖書が語るアダムとイヴの堕落の物語を心理学を組み合わせて述べたものである。

そしてもう一度無境界にたどりつくためには、分断してきた境界を一つずつ幻想だと見破り自己に統合していけばいいのだとウィルバーは言う。そこで、心理学のセラピーと霊的修行を組み合わせた、統合的な道を提示する。ウィルバーのすごいところは、複雑で相矛盾する心理学と宗教の理論をそれぞれ段階特定的には正しいのだとして、すっきりと整理してくれたところである。この本は、自分でできる実践もわかりやすく書かれているので、特に心理学や宗教を学ばなくても取り組めるようになっている。私自身、自我の投影のメカニズムや心と体を統合するメソッドを知り、大分楽になったように思う。特に現代社会の歪みは、体と心の分裂から起因しているものが多いと思うので、ウィルバーの言うケンタウロス的自己(心と体は統合された自己の体験となる)を育てるべく身体に関わる仕事を始めた。

ケンタウロスの自己は心と体の分裂を癒したが、まだ世界と自己の境界を信じている。そこで次のセラピーは、自己と世界の分裂を癒すべく、心理学を後に残し、霊的な修行を取り上げなくてはならない。ウィルバーは、自己と世界を一気に統合するのではなく、ヴェーダーンタ(特にラマナ・マハリシ)にならって超個的な観照者、純粋意識というトランスパーソナルな自己、あるいは魂をおく。観照者は自我の存在から脱同一化することで現れる。私が当時最も気に入って実践したのが、この「観照者の瞑想」であった。ウィルバーの全著作を通じてこの「観照者」はキーワードになっている。

この「観照者」は高次の自己であるが、無境界の自覚、究極の意識から見ると最後の障壁、境界となる。心身を観察することでケンタウロスから脱同一化したように、ここでも「観照者」を観察することで「観照者」から脱同一化できる。その時、自己は無境界の領域を垣間見る。しかし、自己は何かをしようとしてすることはできない、まさにしようとすること自体が分離した自己を築いてしまい、無境界を妨げてしまうからだ。そこでウィルバーは神秘家にならって、すでに分離した自己は存在していないことを指摘していく。また過去と未来という時間と共に現れた分離した自己だが、そもそも時間など存在してなくあるのは「時間のない今」だけであることを指摘する。

この本はウィルバーが禅の修行にとり組んでいた時に書かれたものなので、禅の風味があちこちに見られ、日本人にとってもなじみやすいものであると思う。ウィルバー以外の様々な本や実践に接してきたが、いまだに「無境界」は新鮮に感じ、新たな洞察を与えられる。私にとっての座右の書である。霊的な道を歩む人達の基本的な理解として共有してほしいと願っている。

ラマナ・マハリシの「ラマナ・マハリシの教え」
この本は、20世紀最高の賢者と言われたラマナ・マハリシの対話集である。短い問答の中で、すばやく真の自己のありかを指摘し探究者を真理の空間へといざなう。ラマナ・マハリシの言葉は、真理そのものから来ているといっていいと研究者たちは断言している。ケン・ウィルバーも「孤島へ一冊持っていくならこの本を持っていく」と絶賛し、この本のアメリカ版の序文にこう書いている。「本書は20世紀における最も偉大な賢者、そして時代を超えた最も偉大なスピリチュアルな覚醒者の生きている言葉である。この対話に関する驚くべき事柄の一つは、言葉それ自体の調子やスタイルが決して揺るがないと言うことだ。最初の言葉から最後の言葉まで円熟した語り口である。間違いなく、ラマナ・マハリシの覚醒は、彼を完全に形作っている、あるいは、おそらく完全に形がないというべきだろう。そして、それゆえ、さらなる成長を必要としていない。彼はシンプルに、顕現している全世界の目標そして基盤であり、その世界に他ならない、「絶対者」、「自己」、純粋な「空」として語る。」

インド生まれのラマナ・マハリシは、若いときに死の自覚を突然感じ、そのまま死とはなにかを徹底的に追求した結果、突如として覚醒をした人物である。その後アルナチャラという山に住み、いつしか弟子が集まり、世界中の探求者を惹きつけていった。ラマナ・マハリシは「沈黙の聖者」と言われるとおり、ほとんど話さなかったが、側にいて存在を感じているだけで充分だった。準備のできた魂はそれだけで、覚醒をしたという。そのような弟子の中に後にサットサング(真理と共にいるという意味)を広めたマスター、プンジャジがいた。師の偉大さを、自分と同じ境地に弟子を引き上げたかどうかで決めるとすれば、ラマナ・マハリシはプンジャジという完全な悟りを得た人物を生み、またプンジャジはガンガジという覚醒者を生むと言う霊的な流れを作ったことにおいて卓越している。。霊的なつながりを通じて、ラマナ・マハリシの加護が浸透しているのだろう。

ラマナ・マハリシの教えは、ヴェーダーンタの伝統のエッセンスを伝えているが、、そこに「私は誰か?」を問い続けるというユニークでシンプルな方法を加えた。探究者は様々な問題を抱えて質問する、「悟りとは何か」「人生の意味とは何か」「死後はどうなるのか」「神とは何か」と。そのような質問にラマナ・マハリシが答える仕方はいつも決まっている。「その質問をしているのは一体誰かね?」「私です」と答えると、「それでは私とは誰ですか?」と問い掛ける。私は誰かと自分に問い掛けることで、分離した自己に意識を向けることになり、その結果分離した自己から脱同一化するのである。ウィルバーの「観照者の瞑想」も最終的には、ラマナ・マハリシの「私は誰か?」を問うところまで行く。この根源的な問いによって分離した自己を根こそぎにするのだ。ラマナ・マハリシのやり方は、一気に無境界の領域に突入させ、自我を葬り去ってしまうのだ。心の分析などおかまいなしである。ゴミを捨てようとする時に、ゴミの中を調べてどうするのだというわけだ。このような直接的な究極の教えを、ウィルバーは非二元的伝統と言う。

ラマナ・マハリシの方法は、真の自己を見出すためのものだが、日常においても気づきを高めるのに使えると思う。思考や感情が湧き起こった瞬間、自分自身に「この思考や感情は誰に起こっているのだろうか?」と問いかけてみるのだ。それだけで、思考や感情から解放される。この問いかけを習慣的に行っていけば、徐々に自我からの脱同一化がなされていくだろう。

OSHOの「知恵の種子」
インドのプーナに広大なアシュラムを持つOSHOは、色々と物議をかもすマスターであるが、私自身はその語り方、その存在がとても気にいっている。OSHO自身の覚醒から縦横無尽に流れてくる講話は、数にして600冊に及ぶという。日本においても最も多く出版され、最も多く読まれている神秘家ではないだろうか。古今東西のあらゆる聖典や神秘家の言葉を題材に真理を指し示しているが、どの本からも変わらぬ覚醒の味を味わえる。まさに読んで考えるものではなく、ハートで感じ、自己の存在の全体に浸透させていくものである。私自身、初期の頃、OSHOのスピリッチュアルな世界にどっぷりと浸っていた。探究心を炊きたてられ、「思考を見守る観照者」という言葉が気づきを高め、「あなた方がブッダなのだ」という言明に心を躍らされた。

どの本も気に入っているが、特にこの「知恵の種子」という本は、OSHOが初期の頃に弟子に当てた手紙から成っており、その後の教えのエッセンスが凝縮されている。どのページを開いても人間の深い部分に対する洞察で満ちている。またOSHOの純粋に人間的な側面を垣間見ることができる。他には「ディヤン・スートラ」が私にとってはとても励まされた。

私はケン・ウィルバーとOSHO、両者に親近感を感じるが、この二人は一見正反対のようにも見える。ここで、両者の共通点についてあげておこう。
(1)神秘主義、あるいは霊的伝統の核心にある教えは、実験の組み合わせであると、ウィルバーはいい、瞑想を強調する。OSHOもプーナのアシュラムは巨大な実験場であるといい、数々の瞑想やメソッドを試みた。
(2)「観照者」あるいは単に気づきという、思考を見守る観察者について常に言及する。「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」の100を超えるメソッドは、「見守る」というただ一つの技法の上に打ち立てられたと言っている。
(3)ウィルバーは、デビュー作の「意識のスペクトル」で西洋心理学と神秘主義、霊的伝統を組み合わせ、一つの体系に仕上げたことで一躍脚光を浴びたが、OSHOも覚者に珍しく、セラピーやボディワークを瞑想の準備として奨励した。また、感情を解放するセラピー的なものから観照者へと移る瞑想法を教えた。
(4)二人とも、老子や荘子に代表されるタオイズムと禅をとても好んでいる。ウィルバーは禅の曹洞宗と臨済宗の両方で師家の資格を持っており、OSHOは晩年、禅をよく取り上げていた。

宗教というと、罪とか懺悔、苦しみといった暗いイメージがつきまとうが、OSHOは「踊る」ことをとても好み、躍動する生を祝福した。あらゆる情動や性的なもの、物質的豊かさに、気づきを持って入っていく教えは、タントラのエッセンスと同じである。OSHOはまさに「狂気の智慧」を体現していたのだろう。そして何と言っても霊的修行は「祝祭」であるとしたのは、スピリチュアリティに対する偉大な貢献であると思う。

カリール・ジブランの「預言者」

レバノンの詩人であり、哲学者であり、画家でもあるカリール・ジブランは、日本ではあまりなじみがないが、この「預言者」はアラビア文学の最高峰とも呼ばれ、世界中で愛読されているものである。アルムスタファという預言者が、様々な質問に答えていく形ですすむこの対話は、常に神秘的な真実を感じさせ、私たちの現実は聖なるものに取り囲まれているのだと感じさせてくれる。多くの言葉を語らず、しばしば沈黙から語るアルムスタファは、常に私たちの意識を内に向けさせ、そこに「在る」ものに気づかせる。

私はこの小さな本から多くの光と闇について学んだ。そう、ジブランは、誰よりも人間の闇の部分について、また物事の両極性について敏感だった。ゆえに時には読者の心の触れられたくない傷口を開き、さらけだすこともある。なぜなら私たちは夢想にふけっており、大切なものが何かを見失っているからである。ジブランは、ニーチェに心酔しており、この「預言者」も「ツァラトゥストラ」と同じ形式で書いた。それだけに、生命の豊穣さを叫ぶ。

アルムスタファは愛についてこう語ります。
「愛があなたがたをさし招いたら、愛に従いなさい。
たとえ、その道がどんなに厳しく険しくとも。
たとえ、その声が、庭を荒らす北風のように、あなたがたの夢を打ち砕いても。
愛はあなたがたを育て、また刈り込みます。
愛はあなたがたを、麦の束のように刈り取り、あなたがたを打って、裸にし、
ふるって、殻をとり、ひいて、白く粉にし、練って、しなやかにする。
そしてさらに愛はあなたがたを愛の神聖な火で焼きます。
愛は、これだけのことを、あなたがたのうちに、あなたがたのためにするのです。
あなたがたが自分の心の奥の謎をさとり、このさとりのうちに生命の心のひとひらとなるために。」

ジブランの「いと高きもの」への憧れと、大地への愛は、読むものの心を神聖なものにする。アルムスタファの声に耳を傾けてみよう。時には、畏敬の念に打たれ、時には恐れ、時には心の底から癒されることだろう。しかし、アルムスタファは私たちと別の存在ではないのだ。訳者の佐久間氏はこう述べている。「アルムスタファとの出遭いは、私たちが私たち自身に出遭うことでもあります。私たちはそこで、言葉を探していた私たちの考えを見つけ、自分自身のなかで沈黙のうちに脈動している生命の不可思議に気づかされるのです。」

アルムスタファは今日もまた、こう語ります。
「何を私が語れましょう。あなたがたの魂の中に今、動いているそのことの他には」と。

レックス・ヒクソンの「カミング・ホーム」

レックス・ヒクソンの「カミング・ホーム」は永遠の哲学と呼ばれる、世界の偉大な神秘主義的伝統の最良の入門書である。そして単なる理論的な説明を並べているだけではなく、私たちが「永遠の哲学」の核心にある教え、悟りについていくらかでも感じられるように、気づきを促す。ヒクソンは悟りをこのように定義する。「悟りとは、我々の根源的調和にーあるいは神秘主義的な別のいい方をすれば、我々が神性に根ざしているという事実にー目覚めることである。」そして、「すべての存在は、悟りを開いた者には継ぎ目なき全体、神聖なる生命として開示される。究極のものに意識的に触れるこの悟りを味わうことは、我々一人一人にとって可能なことである。悟りは我々の意識の秘密の本質であり、この本質を徐々に現すことが、誰もが関わっているスピリチュアルな成長のプロセスなのである。」

この本は、根源的な調和に関して、様々な伝統から検討を加えており、これから何らかの実践をはじめたい方には、ぜひ参考にしてほしい。また、特定の伝統に属している人も、それぞれの伝統の中にある普遍的な要素を発見することだろう。私たちは一つの真理に異なった表現を与えているだけなのだ。宗教間の争いが深刻になる一方の現在、「カミング・ホーム」で語られた「悟りの実験」は真剣に取り組むべきものである。それぞれの宗教の人々がその核心にある教えにまで登りつめて初めて、共通の体験的理解を得られるのだ。そして共通の理解があるのだということが認識されれば、どれだけの争いが意味をなくすことだろう。

ヒクソン自身による本書の概観をみていこう。
「ハイデッガーは西洋の哲学的・キリスト教的な神秘主義的伝統を引き出す。彼は、伝統的宗教へのいかなる関わりも持たない、当代の最も深い黙想的思想家の一人である。これまた宗教的伝統との結びつきを持たないままでいるクリシュナムルティは、アジアの古い黙想的実践の精神を現代語へと翻訳している。それとは対照的なラーマ・クリシュナは、インドの文化的・宗教的形式に完全に浸りきっていた。けれども、彼は、それらの形式をその元もとの完全無欠のままに保ちつつ、しかもその限界を超えさせることができた、稀な普遍的ヴィジョンの持ち主であった。ラーマ・クリシュナが触れたヒンドゥー教、キリスト教、及びイスラム教的霊性への恍惚的な没入は、包括的なタントラの道を表している。インドの賢者ラマナ・マハリシは、本質的に、東洋及び西洋のすべての宗教的・文化的形式を迂回している。以前の宗教的アプローチを越えたラマナは、地球的霊性と言える。

次に我々は12世紀以来、仏教実践者たちにより深い理解を促してきた、悟りのプロセスを十段階で表した禅の十牛図を熟考してみる。プロティノスについての論考は、西暦初期からの新プラトン学派のこの哲学者が、おそらく、これまでの時代のいずれかの文化に出現したうちで最も深遠な霊的探究を成し遂げた形而上学者であることを明らかにするための試みである。この論考は、プロティノスが雄弁に語っているところの「一者」への上昇についての、霊的なヴィジョンによる私自身の体験談で締めくくられている。

ユダヤ教ハシディズムの魂の導師たちに関する論考は、いかなる理性的アプローチによっても入り込めない聖なる恍惚の領域へと直参する。聖パウロの書簡についての論考は、神秘主義的ラビとしてのパウロとハシディズムの教えとの類似を強調する。ダマスカスに向かう途中でのパウロの恍惚体験は、キリスト教的伝統の中で発展したメシア(救世主)に対する神秘主義的アプローチの種子となるものである。次に我々は、スリランカから私宛に書かれた、現代のイスラム教の賢者であり、スーフィズムの道を体現しているバワ・ムハイヤッディーンによる私信に目を転じる。それからさらに、古代中国の儒教的・道教的伝統の観点から、「易経」の託宣書から伝統的儀式の作法に則って導きを求めつつ、これまで遭遇してきた論題を検証する。

最後に、以上のすべての言語やイメージを融合させ、読者各位によって実行されるべき黙想的実験へとまとめあげる試みをしている。「トゥリーヤ」と称されるアドヴァイタ・ヴェーダーンタの「絶対」は、瞑想中に私に起きた鮮明な体験に照らして、この論考中で黙想的実践と関係付けている。このように本書は、知的探究のレベルではなく、霊的実践と体験の領域において極点に達する。」

ヒクソン自身は、ラーマ・クリシュナの流れをくむ高僧、スワミ・ニキラーナンダにイニシエーションと霊的訓練を受け、悟りを体験している。その様子は、最後の章で語られている。その訓練と洞察に基づいて、普遍的な言葉で紹介された悟りへの実験的試みは、誰もが受け入れやすいものとなっている。

ケン・ウィルバーの「ワン・テイスト」
これはスピリチュアルな探究者であり、成就者であるウィルバーの誠実な内面の記録である。壮大な思想体系を構築した人物が普段どのような生活をし、またどのような霊的実践をしているのかは、誰もが興味を惹かれるところだろう。この本は、ウィルバーの1997年の一年間に渡る日記である。プライベートの事から、瞑想の落とし穴について、理論の解説から、友人関係など、興味深い話題が次から次へと語られていく。私にとっては、どのような瞑想の実践、あるいはチベットのゾクチェン仏教をしてきたのかが常に知りたいと思っていた。密教には、公にできない口伝や秘儀があるものだが、ぎりぎりのところまで書いていると感じた。

注目すべきは、理論書ではほとんど触れてこなかった、微細領域(アストラル、元型、本尊、恩寵の世界)について語っていることである。ウィルバーは、微細領域を無視していると言う批判がよく聞かれていたからだ。この本では、本尊瞑想による微細領域の体験と、ヤブユム(父母仏)の性的なタントラ観想法を紹介している。このタントラの観想は、性的なエネルギー(実際に性的な興奮を喚起される)を輝く至福そして慈悲の抱擁に変容させることを目的としている。

他に瞑想における脳波の実験をウィルバー自ら行っているデータを公開している。脳波は、内面で起こっている状況の外面的な対応物として、心と脳の相関を調べるのに役立つ。この実験において、通常は夢をみない深い眠りの状態でしか現れないデルタ波が、目ざめている状態で最大値をあらわしている。これは不断の観照を示しており、デルタ波はスピリットの状態をあらわしているのではないかと推測している。また、ウィルバーがニルヴィカルパ・サマーディ(精神の完全な停止)、に入ると、驚くべきことに計測器のアルファ、ベータ、シータ波の針が完全にゼロをさす。これは誰であっても脳死のようだ。しかし、まだデルタ波は最大値を示している。この実験は注目に値する。脳波の数値は、見る者を納得させるからだ。

チャクラは、クンダリーニ・ヨーガにおいて探究された意識のレベルに対応する微細な身体のセンターだが、音楽とチャクラのレベルについて考察している。
「異なる種類の音楽が持っている効果は魅力的だ。ロックは、疑いなく、低次のチャクラを点火させる。(2から3、セックスと力、丹田)ラップはストリートのサバイバル・ミュージックだ。(チャクラ1、尾骨)最高のジャズは(3から4である、胸)偉大なロマン主義の作曲家たち(ショパン、マーラー)は、ときにしたたるあらゆるハートの情動、第4チャクラの精髄である。ハイドン、バッハ、モーツァルト、晩年のベートーベンは、音楽の圏域を第5から第6(眉間)へと押し上げるように思われる。あなたはそうした音楽が演奏されることによって、様々な身体の中枢(丹田、胸、頭頂)に注意が引きつられるのを実際に感じることができる。私は、たとえば、プロティノスやエックハルト、エマソンについて書いているときに、思考を妨げない音楽が、モーツァルト、晩年のベートーベン、ハイドンの数曲であることを見出した。」

霊的な領域には、大きく分けて、微細領域、元因領域、すべてを含んだ非二元領域があるが、ウィルバーは日常においても
この非二元の「空」、不断の意識に浸透されている。
「昨晩は、ずっと不断の意識があった。自発的な覚醒が夢を見ている状態と深い眠りの状態を通して何が生起しようと存在していた。そこには、私はなく、単純に原初の自覚あるいは基本的な覚醒だけがあった。そこには、単純に元因それ自体(深い無形の眠り)の中に「ワン・テイスト」の自覚がある。そして、この暗黙の非二元の自覚は、(夢を見ている状態が始まって)微細が元因から生起し、それから(普通に目覚めて)粗大(現実世界)が微細から生起しても続く。だから、(午前3時頃に)粗大状態が顕現したとき、原初の自覚に大きな変化はなかった。原初の自覚の中に、粗大身体、ベッド、部屋の知覚が単純に生じた。」

非二元の自覚、空が基調になっているこの本は、クリシュナムルティの「生と覚醒のコメンタリー」並みの静寂な雰囲気を醸し出している。また、探究者への的確なアドヴァイス、例えば「ワン・テイストへの道の大きな二つの誤り」などは、とても参考になった。そして、ウィルバーは常に実践への呼びかけをし、私たちを励ましてくれている。

チョギャム・トゥルンパ・リンポチェの「タントラへの道」
タントラとは、チベット密教、金剛乗、ヴァジュラヤーナの事をさし、チョギャム・トゥルンパ・リンポチェは、カーギュ派に属する導師である。晩年には、環俗をしたが。アメリカが東洋の霊性に気づき、学ぼうとし始めた、まさにその真っ只中の、1970年に渡米をした。当時、ヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメントやニューエイジ運動が真っ盛りの中、精神的な修行が、利己的な満足のために行われていることを見抜き、「精神の物質主義」と名づけ警告を発したことは有名である。。

精神の物質主義とは、精神的な達成を、物を集めたり、仕事で業績を上げたりするのと、同じ方法で求めていることをいう。新しい考えを集めてきてはコレクションのように並べているだけで、エゴをただ肥らせてしまう。よってリンポチェは、華やかなチベット密教を教える前に、エゴが自分を守り、自分を改良しようとし、他人に証明しようとする傾向を見抜き放棄するように言った。エゴが正直に自分自身を見つめ、問題点をすべてさらけ出してはじめて、修行がはじめられるというわけだ。

従ってこの「タントラへの道」は、あまり心地いい話ばかりとはいえず、耳の痛い話もある。私にとってはそうだった。しかし、自分の心の奥では確かにそうなのだと気づいてはいた。エゴが生き延びようと精神的な修行を企てる策略を見事に暴き出し、自己欺瞞を白日の元にさらす。エゴの描写に関しては、仏教用語をあまり使わず書かれているので、とてもわかりやすい。

リンポチェは言う。
「瞑想の修行において、私たちはエゴの混乱を吹き払うことによって目覚めた境地を垣間見る。無知、心の混乱、そしてパラノイアなどが取り払われれば、人生に対する限りない視野が開ける。私たちは、異なった自分の存在の在り方を発見するのだ。混乱の主な原因は、自分が継続的で固定した存在だと感じることにある。あなたは今、自分がこれらの言葉を読んでいると感じている。この自己という感覚は、本当は断続的な束の間の出来事であるにもかかわらず、混乱した心の状態にとっては固定した自己を維持し、高めようとする。

その自己に快楽を与え、苦しみから守ろうとするのだ。日々の体験は、私たちに自己の無常さをさらけ出す脅威をたえまなく与える。そこで、私たちは自分の真の状態を見出すあらゆる可能性を覆い隠そうとあがくのだ。「しかし」と問う人がいるかもしれない。「もし、真の状態が目覚めた状態であるのならば、それに気づくことを避けるために、なぜこうもあくせくするのだろうか?」なぜなら、私たちは自分の混乱した世界観に完全に飲み込まれ、それがリアルな、存在しうる唯一の世界だと信じ込んでいるからだ。固定して継続的な自己という感覚を維持しようとするこのあがきこそ、エゴの行為に他ならない。」

リンポチェ自身は、仏教や伝統に固執せず、宗教間の交流や芸術に関心を示していた。「シャンバラ」という仏教用語なしで、道をしめした、すばらしい本もある。タントラは、「狂気の智慧」と呼ばれるだけあって、かなり大胆な人生を送ったようである。タントラの智慧は、すべてを「空」「仏性」のあらわれと見るため、何も恐れることなく、情動や性的なエネルギーを使いこなす。一方で、分離した自我を焼き尽くす炎の智慧を持ち合わせている。ケン・ウィルバーはトゥルンパ・リンポチェの元で、修行をしていたみたいだが、奥さんのトレヤは、リンポチェのやり方は、「乱暴過ぎて、ちょっと常軌を逸していると感じる」といっていたそうだ。

リンポチェは、私の試みがエゴに基づいていることを認識させ、失望をさせるが、その失望がまた成長につながっていくのだという。何かになろうとする努力を手放し、退屈という状態に慣れれば、心は仏性を受け入れる器になるのだという。タントラは常に「今ここにいること」を説く。そして、内なるブッダ、根源的な知性の光輝を開示する。

ウスペンスキーの「奇蹟を求めてーグルジェフの神秘宇宙論ー」
20世紀の始めに突如、ロシアに現れた風変わりな導師、グルジェフの教えを記したこの本は、探究者の間では、古典でありバイブルにもなっていた。「システム」と呼ばれた教えと、「ワーク」と呼んだ実践を、8年間弟子となって受けたウスペンスキーは、後に本人も霊的な教師となった。グルジェフと会う前に、すでにウスペンスキーは、思想家として一定の業績を残していたが、(ターシャム・オルガヌムなど)、思想家としての地位に甘んじることなく、時には常軌を逸しているかに見えるグルジェフの指導に従っていった。

世界中の秘教的知識を探求した二人だが、ウスペンスキーにはグルジェフがその知識を実際に体現しているように見えた。存在感が全く違っていたのだ。グルジェフは、「人間は機械だ」という挑発的な事を言ったが、弟子達はまさに自分たちが機械的自動的に生きていたことを「ワーク」によって思い知らされることになった。グルジェフは分離した自我、あるいは機械的な思考を終わらせるために、意識を研ぎ澄ませないと行えないような神聖舞踏や、「人格」と呼んだ作られた自我を徹底的に侮辱するということをしていった。そのため、はやばやと師の元を去っていった弟子も多かったようである。

グルジェフの、「複数の自己」と「人格と本質」という心理的な教えは、アメリカのスピリチュアルな研究者やトランスパーソナル心理学者などにも影響を与えた。(ニードルマンやチャールズ・タートなど)また、エニアグラムという一説にはスーフィーから取り入れたメソッドは、中身を変えながら、現代の心理学でも使われている。エニアグラムは、ある種の神秘図形で、瞑想の対象として使うと、その図形に秘められた、宇宙の法則が明らかになるのだという。グルジェフはエニアグラムに、「3の法則」と「7の法則」を読み込んでいた。

「3の法則」は、物事には能動、受動、中和の三つがあってはじめて存在することを表している。「7の法則」は、物事の進行に関して説明している。音階を例えに使うと、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの中で、ミとファの間、シとドの間は半音になっいる。つまり、この3番目と7番目の次に今までとは違った何らかのインパクトがないと、物事は停滞してしまうという。このエニアグラムに関しては、松村潔さんの「意識の10の階梯」がとても示唆に富んでおもしろい。

グルジェフは、自らのワークを「第4の道」と名づけた。ファキールの道(身体を酷使する)、修道僧の道(感情、犠牲)、ヨーギの道(知識、精神)が、現実生活を放棄しないと行えないのに対し、第4の道は現実の生活の中こそが、修行の場であるとした。そのため、伝統的な宗教に限界を感じていた欧米の探究者の間で広まったのだろう。

「第4の道」で、最も重視したのは「自己想起」という訓練である。ウスペンスキーは、注意の分割と説明し、自己を意識しながら対象に関わることだという。日常の中の瞑想みたいなものであると思う。仏陀はあらゆることを注意深く行えといったが、「自己想起」はそのことと通じている。この「自己想起」のワークが、自己意識の結晶化を生む。ウィルバーの言う「超個的観照者」であろう。この「自己想起」は、宗教的な背景なしにすすめられるので、普遍的な技法としても有効である。また「自己想起」を助けるものに、「ストップの技法」がある。何かをしている時に、突然グルジェフがストップといい、全員、態勢を一切動かさずそのままで凍りついたようになるというもである。その瞬間、身体、思考、感情と違った「純粋な自己」に気づくことができる。グルジェフのことを大変気に入っていたOSHOは、瞑想にこの技法を取り入れている。

グルジェフの教えは、難解だが、インスピレーションを与えてくれる。ウスペンスキーやオレージ、C.Sノットによって語られてはいても今だに謎の多いグルジェフは、私の興味を引き続けている。それにしても、ウスペンスキーの記憶力はすごいものがあるなと感心する。導師は確かにすばらしいのだが、ウスペンスキーのような正確に伝える人がいなければ、私たちは「知識」を目にすることも少なかったであろう。グルジェフやその元で学んでいた人たちの、存在の謎を解明しようとする飽くなき情熱は、私自身常に持っていたい。

鈴木俊隆老師の「禅へのいざない」
おそらくアメリカの禅の修行者が実践する上で最も影響を与えた本ではないだろうか。それは日本が生んだ叡智の高峰、道元禅師の仏道を、エッセンスを変えることなくわかりやすく伝え、しかも鈴木俊隆老師自ら仏性を体現していたからだ。20世紀の初頭には、鈴木大拙老師がアメリカに渡り、禅を伝えた。大拙老師は、禅の思想的な面を主に講演し、禅が世界に広まる下地を作ったといえる。その後、俊隆老師が、1960年代に渡り、禅の実践を教えた。時に、ニューエイジの真っ只中だった。アメリカはこの二人の鈴木老師により、禅が隆盛をきわめ、今や仏教は、アメリカに重心を移したのではないかとまで言われたくらいだった。(仏教は、インド、東南アジア、中国、日本、チベットと東、東へと発展し、移ってきた。)

大拙老師は、臨済宗の流れを汲んでいる為、悟りの体験を重視し、ダイナミックな禅を説いた。それに比して、俊隆老師は、悟りを求めすぎると道を誤るという実践的な立場から、「特別のことは何もない」という仏性を強調した。この素朴な老師の元で、こぞってアメリカの若者は修行した。修行場として、サンフランシスコ禅センターを立て、今でも代表的な拠点となっている。ちなみにアメリカにおいて俊隆老師の後継者として目されていたのが、ケン・ウィルバーの師であった片桐老師である。ウィルバーは、片桐老師の元で最初の悟りの体験をした。それは、片桐老師が耳元で、「<観照者>は自我の最後の抵抗だよ」と言われた時だったという。

ウィルバーの本には、大拙老師や俊隆老師の言葉が頻繁に出てくるが、今日の高度なアメリカの霊性を支えたのが、禅やチベット密教といった仏陀の道であったことは疑いない。禅やチベット密教が広く受け入れられたのは、仏性や悟りについて、原始仏教のように、「無我」や「無常」という表現を強調せず、「大我」「真の自己」「大きな存在」「常に在るもの」「不変性」という言葉で表現したことも、一つの要因としてあると思う。俊隆老師は、「ビッグ・マインド」とか「オリジナル・マインド」という言葉を使った。

原タイトルである「初心禅心」の「初心」とは、初発心のことであり悟りを目指して修行しようと初めて決意した心を指す。曹洞宗の教えでは、初発心の時、すでに悟りは成就しているという。私たちは長いこと修行して悟りを達成するのではなくて、初めて決意した時にすでに悟りは現れているというのだ。それを踏まえて俊隆老師は、初心こそ禅の心であるから大事にするようにと言ったのだ。

老師は言う。
「仏陀から現代にまで伝えられてきた教えとは、坐禅をはじめたときには何の準備もなくすでに悟りがあるということである。坐禅をしようがしまいが、誰にも仏性がある。仏性があるからこそ、修行に悟りがあるのである。本来仏性があるのであれば、我々が坐禅を行う理由は仏陀のようにふるまうためである。何かを獲得するために坐るのではなく、我々の本性を表現するために坐るのだ。それが禅の修行である。禅の修行とは、我々の本性の直接的表現である。」

この「禅へのいざない」は仏教を志す人以外にも、瞑想とは何か?霊的探究とは何か?について多くの気づきを与えてくれることだろう。

ラム・ダスの「ビー・ヒア・ナウー心の扉をひらく本」
「未来のことは考えないこと
ただ、ここにいまいるように
過去のことは考えないこと
ただ、ここにいまいるように」

「BE HERE NOW  今ここに在る」と呼びかけたアメリカを変えた本である。ハーヴァード大学の心理学教授だったリチャード・アルバートがサイケデリック(向精神性物質)の自己実験を通して、意識の未知の領域に魅せられ、やがてインドに旅をし、変容を遂げていく実話である。インドでは、ニーム・カロリ・ババという導師にイニシエーションを受け、ラム・ダスという名前をもらい、その後霊的修行者として、あらゆる分野の人に影響を与えた。1970年代のニューエイジ運動に関わった人の書棚には、必ずといっていいほど、この本が置かれていたという。自己変革を求める人たちのバイブルとなり、ラム・ダスは東洋の修行を取り入れて成長していった見本のように見られた。ラム・ダスの真摯でバランスのとれた姿勢は、無秩序に陥りやすいサイケデリック文化や正統的なアカデミズムの学者に対して、東洋の修行という体系的な実践を行うことの大切さに目覚めさせた。

この本の後半は、「意識を高めるための百科全書」というだけあって、様々な伝統の瞑想法、観想法、祈りを取り上げている。霊的な探究の基本と、宗派にこだわらない姿勢を育てるのにとてもよく書かれている。「混沌から光明へ」の章は、霊的領域のハイな気分が伝わってくるようである。ちょっとあやしげだが、こういう感じも気にいっている。それとラム・ダスのユーモアがいい。

ラム・ダスは日常生活に霊的修行を持ち込むことを特に強調しているように思う。他にも、ダイイング・プロジェクトという「意識的に死ぬ」という死のワークをスティーブン・レヴァインと共に行った。霊性を探究することは、死を探究することと同じであり、霊性の探究者は死のワークを通して社会に貢献できるということを感じさせる。貴重な試みだ。修行の初歩的な実践には、「覚醒への旅」がおすすめ。

ミハイル・ナイーミの「ミルダッドの書ー灯台にして港」
レバノン生まれの文学者ナイーミは、晩年、著作を発表するかたわら、山に籠もり、瞑想の修行を積み、何度か神秘体験を得たと言われる。その体験から涌き出てきたのがこの神秘的な書物、「ミルダッドの書」であった。この書を書くにあたって最も触発を受け、影響されたのが、親友であったカリール・ジブランの「預言者」だった。アルムスタファ同様、賢者ミルダッドの口からは、人間の本性への道、苦しみを克服する道が、語り出されてくる。それは、人間の持つ悲しみ、非情さ、愚かさを見つめつつも、人間の尊厳を讃えている。「人間は産着にくるまれた神である」と宣言する。

そして、有名な一節で苦痛なき生への道を示す。
「これが、配慮と苦痛から解放される道だ。
考える時には、あたかも考えることすべてが炎で空に刻み込まれ、ありとあらゆる物に注視されているかのように考えなさい。
というのも真実はそのとおりなのだから。
語るときには、あたかも全世界が一心にあなたの語ることを聴こうとしている一つの耳であるかのように語りなさい。
そして真実はそのとおりである。
行う時には、あたかもすべての行いが自分自身に振りかかってくるかのように行いなさい。
そして真実はそのとおりである。
願うときは、あたかもあなた自身が願いであるかのように願いなさい。
そして真実はそのとおりなのだから。
生きる時は、あたかも神自身が生きるためにあなたを必要としているかのように生きなさい。
そして真実はそのとおりである。」

このように強烈にトータルに誠実に生きることが、産着を脱いで神をさらけ出すことなのだろう。ニューエイジの思想から、仏教、ヒンドゥー教のカルマの教えまでを、言い尽くしているように思う。私たちは普段何を思い、何を語ってきたのか。聖なるものに対する激しい渇きを覚え、一途に情熱を傾けて願う探究者に対して、ミルダッドは言う。
「聖者が聖者になるのは、聖者たるにふさわしくない願いや思いすべてを自らの血潮から一掃し、揺るがない意志でもって、聖性以外の何物でもない目標に血潮を向けようとするからに他ならない。
私はあなたがたに言う、アダムより今日までの、すべての聖なる願い、すべての聖なる思い、すべての聖なる意志は、聖性に到達することにきわめて熱心な人間を助けるために突進してくる。どこにあろうと水は常に海を求め、光線は常に太陽を求めてきたのと同様だ。」
昔から、探究者が一歩神に向かえば、神は百歩探究者に向かってくると言われている。まさにそうなのだろう。

そして、生の両極性、パラドックスについて語る。
「多くの道が分岐しているところでは、どの道を行こうかとためらうことはない。神を求める心には、すべての道が神に通じている。
あらゆる形をとった「生命」に畏敬の念をもって近づきなさい。最も重要でないもののうちに、最も重要なものへの鍵が隠されている。
下にあるものを見るために上を見上げなさい。上にあるものを見るために下を見下ろしなさい。
登ったのと同じだけ降りなさい。そうしないとあなたは、バランスを失ってしまうことになる。
世界から「悪」の雑草を刈り取ろうとしてはならない。というのも、雑草でさえもよい肥やしになるからだ。
高く堂々とした樹々だけが、森を作るのではない。森には、なんらかの下生えの潅木や巻きつく葦が常に必要である。
暗い情欲は、闇の中で生まれ繁殖する。その繁殖を防ぎたいのなら、情欲に自由の光を与えなさい。
死にゆくものに、「生」を、生きているものに「死」を説きなさい。」

ジブランと同様ナイーミも聖なるものは、上と下の両方を含んでいることを伝える。そしてお馴染みの永遠の哲学における上昇と下降を統合することが述べられている。(登ったのと同じだけ降りなさい。)両極性を認識し、受け入れることは、二元的な自我を克服することでもある。副タイトルどおり、この「ミルダッドの書」は、「克服を希求する者にとっての燈台にして港」である。

アジズ・クリストフの「ヒューマン・ブッダー魂の探究者へー」
ポーランド生まれのマスターであるアジズは、禅やチベット仏教、ヴェーダンタの修行をした後、独自の霊的なガイダンスにより、この世界に新たな教えをもたらした。ラマナ・マハリシやニッサルガダッタ・マハリシに最も影響を受けたというアジズは、「究極なるもの」に関して、「I AM(私は在る)」という表現を使う。ガイダンスは、「 I  AM 」の三つの側面について語る。一つ目は、「気づき」であり、「ステート・オブ・プレゼンス」と呼ぶ。思考を見ている「私」に焦点を合わせることで見出せる。しばしばそれは、頭の中心からやや後ろに位置付けられる。探究者は、日中常にそこに意識を向けるように言われる。自己想起を絶えず続けるのだ。かなり気づきを保っていられると、エネルギーの変容により、マインドを超えた自覚に意識がシフトすることができる。

二つ目は、「ビーイング(存在)」である。マインドを超えた意識の結晶化が起こったら、次にその気づきを明け渡していく。エネルギーは、プレゼンスに凝縮された状態から、「ハラ」へ落ちていくと同時に広がっていく。「なにもしないこと」「只管打坐」によって「ビーイング」へと入っていく。そして三つ目は、両手を胸におき、呼吸でそこを暖めることにより、「ハート」を目覚めさせていく。ハートは伝統的な霊性の中でも、「愛」や「慈悲」として語られるが、ガイダンスでは「ハート」を、魂がパーソナリティと出会う場所であり、また魂が聖なるものと出会う場所であると語られる。

「IAM」の「完全なる瞑想」に沿ってガイドしていくアジズの語り方はとても知性的で心の奥で納得させられる。しかも探究心を鼓舞する力強さがある。伝統的な宗教が形骸化しなかなか受け入れられない状況の中、アジズの教えは人間の霊的成長の科学的方法として、普遍的に受け入れられる可能性を秘めているのではないだろうか。叡智の伝統の究極の達成なき達成、「非二元の教え」を継承しつつ、そこに確かな道を作った。だから、「非二元の道」と名乗っている。

アジズは私たちにこう呼びかける。
「貴重な道を歩み始めるのに、適切な時期はいつか?
親愛なる者よ、それは今だ!
真実の光に到達するために全面的な努力をしなさい。
真の探究者はこの道をかかげるものだ。

忘れっぽさのトランス状態、無知からくる無神経なにせのリアリティから離れたいと熱望する前に
ハートの中に、目覚めへの神聖なる渇望が生まれなければならない。
この渇望は、魂の成熟と誠実さの力によっておこる。
渇望することから、理解、情熱、献身、そして内面の修行がおこる。
これらの質が、我々をして目覚めへの貴重な道へ向かわしめる。」

黄色の地に、禅の円とハートマークが描かれたシンボルマークがとても気に入っている。

アラン・ワッツの「タブーの書」
この本はタイトル通り私たちの存在や世界についての秘密に関することである。タブーとは、「それ」について知ったり言ったりすると、日常生活や権威が脅かされるのでなるべく触れないでおこうというものである。果たして今まで一部の人には知られていたが、大多数の人には隠されてきたタブー「知識」などあるのか?

60年代アメリカの精神革命をリードしたカウンターカルチャー(対抗文化)の旗手アラン・ワッツは、この隠された知識、タブーに挑んだ。アラン・ワッツは禅の修行と、ヴィトゲンシュタインや量子力学を学びながら、私たちの存在と世界の根底に隠されたタブーについて神秘主義者と同じ結論に至った。それは世界から分離した肉体の中の孤独な自己という感覚、つまり今私たちが感じている「私」という感覚、全くあたりまえで疑うことのできないこの「私」こそ幻想であり、実体のないものであり、従ってこの私に基づいて行動する限り苦しみがつきまとうのだというものである。そして「真の私」は、世界と不可分であり、「世界そのもの」である、と主張する。

2500年も前にヒンドゥー教の聖典ウパニシャッドが言明したように、「汝はそれ(真理あるいは神)である。」という、現代社会においてはタブー中のタブーにアラン・ワッツは切り込んだ。この「タブーの書」では、いかに私たちの自我がニセモノで幻想であるかを指摘し、自我が成り立つ基盤を根底から切り崩していく。自我と世界、または個別の物に分割することは、物事を容易にするための「仮定」つまり「フィクション」であるということを覚えておけばいいのだが、それを忘れて分割された世界が真の世界だと思ってしまうと、色々と問題が起きてくるのだ。

善と悪、光と闇、正と誤、生と死など両極にあるものは、どちらか一方だけで成り立つことはありえないことを強調し、二元論の克服を促す。この辺は、老子や荘子のタオイズムの影響がうかがえるところだが、きわめて重要なポイントであると思う。吸う息があれば吐く息があり、昼から夜に代わり、上があれば下があるように、反対物と見られているものは、お互いがお互いを必要としており、相互依存の関係を持っている。この相互依存関係を忘れて、反対物を全部無くしてしまおうとするところに、人間の悲劇があるのだという。

生と死は相互に依存しているが、死を避けようとし、生き続けようと努力する。私たちはなかなか自分の死を受け入れようとしないのだ。そうして生が死に勝とうとする勝ち目のない闘いを始めて、結局は敗北に終わってしまう。生と死の人生が生対死の人生になってしまい、人生は闘いと苦しみで覆われることになる。死に対する恐怖におののく私たちに向けてアラン・ワッツはこう助言する。

「死に対する恐怖を抑圧すると、かえってそれを強めることになる。今ある「私」とその他すべての「物事」は消え去るのだということを、いかなる疑念のかげりもなく知ること、その知識によって「私」や「物事」を手放さざるをえなくなるほどに知ること、ポイントはそれだけだ。あたかもグランド・キャニオンのふちから落ちた刹那であるかのように、しっかりと「今」それを知ること。実際のところ、あなたは生まれたときにがけっぷちから突き落とされたのだ。そして、あなたと一緒に落ちて行く岩にしがみついても、何の助けにもならない。もし、死が怖いなら、怖がるがいい。要点は、それー恐怖、苦痛、はかなさ、消滅、そしてもろもろーと共にあること、それがなすがままにまかせることだ。すると、これまでは信じられなかったような驚きがやって来る。けっして生まれなかったがために、あなたは死なないのだ。あなたは、自分が誰であるかをすっかり忘れてしまっただけだ。」

まさにブッダがいう、「無常」、「はかなさ」を心の底から自覚するということだ。スーフィーたちが、「すべては過ぎ去るもの」と心に刻んでいたのと同じように。良いことも過ぎ去る代わりに、苦しみもまた過ぎ去るのだ。そのことによって自由を得る。「死」を自覚することにより、目覚めが促されるのはよくある事実である。そのためグルジェフは、「ベルゼバブの孫たちへ」で、人間を目覚めさすには、常に「死」を自覚していなければならない器官を人間に植え付けることだと語っている。

アラン・ワッツは実生活で、「それ」(あるがまま)と共にあることを実践していた。酒をよく飲み、快楽を愛し、ユーモアに溢れていた。心の暗い側面を隠すことなく、それと共にあることで大胆になれた。究極的には、「それ」を楽しんでいる「それ」があるだけなのだ。
  

ドン・ミゲル・ルイスの「四つの約束」

メキシコの本物のナワール(シャーマン)であるドン・ミゲル・ルイスは、意識の究極の達成を得るための、四つの約束を教えた。四つの約束を守ることにより、私たちは心を変容させ、人生を変えていくことになる。古代の叡智を伝えるトルテックという教えは、世界の偉大な秘教的宗教の教えと同じ真理を伝える、輝かしい光を放っている。セラピストでもあるドン・ミゲルは、トルテックの教えの力強さと驚異を損なうことなく、心理的な文脈の中に置くことに成功している。そのため、「四つの約束」は多くの人々に受け入れられ、一部の学校教育者にも取り上げられた。

シャーマニズムというとカスタネダを思い出すが、こちらはシャーマンそのものの紛れもない言葉である。「四つの約束(コンパニオンブック)」では、実践の仕方と共にドン・ミゲルとの質疑応答も載せており、シャーマンの日常も垣間見れる。この生き方実践マニュアルといえる本は、探究者のみならず、家庭や職場、人間関係においても福音となるであろう。

ドン・ミゲルの言葉を読んで感じるのは、その圧倒的な力強さと本来の人間に対する祝福である。アメリカでベストセラーになったこの本は、自分や世界に対する自信を失いかけている日本人や日本社会が真剣にに読む価値のある本であると思う。他者とのしがらみが強く、集団で群れることを好む私たちに向けて、ドン・ミゲルは他人や社会、親からの間違った信念に飼いならされず「完全な個」「真の自己」として生きることをすすめる。

他者の奴隷にならないためには、「何事も個人的に受け取らない」と「思い込みをしない」という二つの約束を守ることで達成される。
ドン・ミゲルは言う。
「他の人達がすることはどれも、あなたのせいではありません。他の人が言ったりしたりすることは、彼ら自身の現実の、彼ら自身の夢の投影です。あなたが他者の意見や行為に引きずられないとき、あなたは無用な苦しみの犠牲になることはないでしょう。」
そして
「ものをたずね、自分が本当に欲していることを表現する勇気を見出しなさい。できるかぎり明確に他者と意志疎通して、誤解や、悲しみや、葛藤劇を避けるようにしなさい。」

私たちはそれぞれ育った環境や教育によって異なった信念体系を築き上げてきている。心理学でいうこの「偽りの脚本」、プログラムが、自己と世界、自己と他者の間を隔て、問題を作り出している。プログラムという色眼鏡を通して世界を眺めているのだ。従って、ドン・ミゲルのワークは、最初にこの「偽りの信念」を探し出し、新たな信念に書きかえることを徹底的に行うのだ。霊的な領域に飛躍する前に、下位のチャクラ(感情的こだわり)を調えておこうということだ。

そして次に「言葉」の創造する力を使って、新たな信念を根づかせ、人生を変えるのだ。
「正しい言葉を使うこと」という合意を自分と交わすのだ。
ドン・ミゲルは言う。
「罪のない誠実さを持って話しなさい。言いたいことだけ言うこと。言葉を自分が思ってもいないことを語ったり、他の人たちの噂話をするために用いるのを避けなさい。あなたの言葉の力を、真実と愛に向けてだけ使いなさい。」

「はじめに言葉があった」と旧約聖書がいうように、言葉は万物を生む源である。「言葉」という原初的なエネルギーからすべては顕現してくる。その言葉をいかに使うかが、人生を左右することは明らかである。口癖のように人を批判したり、自分を責めたりと、否定的な言葉を発していないだろうか?自動的な機械のようにこのような言葉を発し、あるいは頭の中でおしゃべりをしていないだろうか。習慣によってできたこの反応を止め、違った反応を選択するためには、多くの努力が必要である。従って伝統的にはこの道は、「戦士の道」と呼ばれてきた。「絶え間ない思考」との絶望的な闘いなのだ。

そこで、最後の約束は、「つねにベストを尽くす」ということになる。
「あなたの最善は、瞬間から瞬間へと変わります。あなたが健康なときと、病気のときでは、その最善が意味するものは違っているはずです。どんな境遇にあろうとも、ただあなたのベストを尽くしなさい。そうすればあなたは自分を裁くことを、自分を責めさいなむことを、後悔することを避けられるでしょう。」

仏陀の最後の言葉は、「常に怠ることなく精進しなさい」というものだった。私たちは我を忘れて、無我夢中で、何かを行っているとき、「真の自己」を表現しているのだ。ベストを尽くした行為に聖なるものが宿る。

プンジャジの「愛と無の祝祭」
「あなたは愛、あなたは無の踊り手
全ての始まりの前、あなたは純粋な意識そのものとしてあった。
愛の中で完全に満ち足りた愛そのもの、アウェアネスを伴った空間そのもの、
安らぎ以上の平和そのものであった。

空間というのが最初の思いつき、そして存在・意識・至福という形をとった。
世界というのはあなたのマインドの生み出したもの、
全てはあなたのハートから、核心から、無から、起こってくる。」

このような書き出しではじまる「愛と無の祝祭」は、覚者プンジャジの純正な覚醒から流れ出してきた真理で輝いている。元々霊的能力のあったプンジャジを悟りに導いたのはラマナ・マハリシであった。霊との交流から、霊との一致をなしたのだ。その後プンジャジは、サットサングを開き、世界中の探究者を引き寄せた。サットサングとは、「真理と共に在る」という意味で、探究者は、プンジャジという真理そのものと一緒にいるだけで、次から次へと覚醒者が誕生した。その中に、後にアメリカでサットサングを広めたガンガジもいた。プンジャジのエネルギーはすさまじく、ラマナ・マハリシの加護もあって、多くの人に恩寵が降り注いだのだろう。

プンジャジはこの「愛と無の祝祭」であますところなく、非二元の教えを説いている。何らかの修行や教義を説くのではなく、方法なし、努力なし、ただ在るだけ、アウェアネスあるのみ、意識のみという、非二元的な覚醒のエッセンスを、妥協することなく徹底して語っていく。一点の曇りもなく、「つねにすでにそうであるもの」の真理を指し示す。

そして今この瞬間に断固たる決意を持って自由になれと言う。
「自分の本性を知るのに、一秒間必要なだけだ。
この一秒間にマインドから全ての思考を取り去る為の非情な決意が要求される。
この一秒間に全てを捨て去らねばならない。
この一秒間にあなたとだけいることを許しなさい。
この一秒間あなたは丹田に力をいれ、拳を握って、
私はこの一秒間に自由にならねばならないと宣言しなさい。
このような極端な自由に対する意志を持つことは珍しい。
強靭な肉体とマインドと意志が必要だ。
全てが整ったとき、この一秒間で充分だ。
あなたはやり遂げなければならない。」

プンジャジは常に、「あなたはそれだ」といい、探究者の注意を探究者自身に向けさせた。ただ静かにしているだけで、それは起こるのだと。何も問題などないのだと言明する。

この「愛と無の祝祭」は読むこと自体が、瞑想であり、エネルギーの充溢であり、真理の宣言である。


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